里仁第四

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 【028】
()(のたま)わく(じん)()るを()()す。(えら)びて(じん)()らずんば、(いずく)んぞ()なるを()ん。

【通釈】
孔子云う、「思いの拠り所を仁(利他愛)に置くと云うのは、美しく立派なことである。又、ことに対処するに自ら仁を拠り所にしなかったら、どうして本当の知者と云えようか」と。

【解説】
つまり、思いと行ないの拠り所を仁に置けと云うことですね。
ここでの仁は、利他愛つまり、「相手思い」ととったらしっくり来るのではないでしょうか。
知は仁あっての知・仁に根ざした所の知でありますが、仁不在の知・仁の根っこから断ち切られた知が独り歩きしたらどうなるかと云えば、「自分さえ良ければ人はどうなろうと構わない!」とする、誠に以て冷酷非情な利己知と云うか、「狡猾な知」になってしまうのではないでしょうか。
ハゲタカファンドの行動原理が丁度これですね。
仁なき知・仁不在の知は、不毛の知です。
魂の進化を促すどころか、寧ろ退化堕落させてしまいます。
前漢の武帝に仕えた儒者の董仲舒(とうちゅうじょ)は、孔子の徳を仁・義・礼・知・信の五つの徳目「五常」としてまとめてくれました。(五徳とも云う)普通はこの五徳を同列・並列に捉えて、この他に孝だの恵だの忠だのと付け加えて論じますが、論語を百回くらい読んでみますと、実はこれら仁・義・礼・知・信は同列・並列ではないんですね。
総ての根っこに仁がある、つまり、徳は総て仁ベース(土台)、仁あっての義・仁あっての礼・仁あっての知・仁あっての信である、と孔子は考えていたようなのです。
述而第七で孔子は、「道に志し、徳に拠り、仁に依り、芸に遊ぶ」と云っている。
通釈しますと、「人生の王道を目指しなさい!その王道は徳を拠り所としなさい!徳は総て仁を土台(ベース)としなさい!その上で豊かな教養を身につける。これが人生の王道である」と。
だから「仁に里るを美と為す」・人として立派なことである!と云ったんですね。
孔子と云う人は面白い人で、重大なことほどサラリという癖がありまして、読者もそれにつられてサラリと読み飛ばしてしまったら一大事。
孔子の凄さを見逃してしまいます。
サラリと語っている所ほど注意して読んで下さい。
尚、里美と云う名前の方がおられますが、この章からとったものでしょう。

【029】
()(のたま)わく(いやしく)(じん)(こころざ)せば、()しきこと()きなり。

【通釈】
孔子云う、「何はともあれ仁にさえ志していれば、まず悪の道に染まることはないだろう」と。

【解説】
ホラ、云った端からこんな大事なことをサラリと云ってのけている。
「仁に志す」とは、「己の欲せざる所は人に施すこと勿れ(自分がされたら嫌なことは、人に仕向けてはならない)」・「己立たんと欲して人を立て、己達せんと欲して人を達す(自分がこうありたい!ああなりたい!と思うことはまず人にやってあげなさい)」と云うことですから、他のことはどうあろうとも、小さい時からこのことだけでも叩き込まれていれば、曲がろうにも曲がってみようがない訳です。
子育てに悩んでいる人にとって、孔子のこの一言は、大いなる福音になるのではないでしょうか?「何をどう教えたら良いか分からない時は、仁に志すことだけ教えておきなさい!己の欲せざる所は人に施すこと勿れ!己立たんと欲して人を立て、己達せんと欲して人を達す!この二つだけでも良いから、繰り返し教えておきなさい。立派な人物になるかどうかはいざ知らず、少なくとも、悪に手を染めるようなことだけはしなくなるから!!」と云っている訳ですからね。
これって、本当に大事なことです。

【030】
()(のたま)わく(ひと)(あやま)ちや、各々(おのおの)()(とう)(おい)てす。(あやま)ちを()(ここ)(じん)()る。

【通釈】
孔子云う、「人は皆その類を同じくする所で過ちを犯すものだ。だから、その過ちを観察すれば、その人の人柄は分かってしまうものだ」と。

【解説】
私達は、知って犯す過ちよりも、知らずに犯してしまう過ちが断然多い生き物です。
知らずに犯すから、いつも似たような場面で似たような過ちを繰り返す。
昔は、仏の顔も三度まででしたが、今は同じミスを二度やるとバツのレッテルを貼られてしまいます。
一旦レッテルを貼られると、今度は自分でもそうだと思い込んでしまって、負のスパイラルに陥ってしまいます。
口には出さないけれど、誰でも一度や二度は経験しているのではないでしょうか?負のスパイラル地獄は。
みんなそこから這い上がって来たんですね。
後になって、「あれは一体何だったんだろうか?」考えてみると、負のスパイラルにはまってもがいている自分を、じっと見守っている別の自分がいることに気がつきます。
これが、一人一人の魂に宿る神性とか仏性と云うものなのでしょう、所謂「我が魂の底の底なる神」です。
皆自力で這い上がってきたと思っているかも知れないが、神性(神の種)に導かれてここまで来れたのです。自力+他力=自他力です。
唯物思想に凝り固まって、人間は分離孤立した物的存在だと思っている人は、負のスパイラルにはまると、自ら命を断ってしまう場合があります。
分離孤立した人間など一人もおりません。
みんな魂の底の底で繋がっている一体のものです。
だから一人一人に、前に云った「ミラーニューロン」と云う脳神経が備わっている訳ですね、共感本能と云うか、惻隠本能が。

【031】
()(のたま)わく(あした)(みち)()けば、(ゆうべ)()すとも()なり。

【通釈】
孔子云う、「朝、真理を聞いて悟ることが出来たなら、夕方死ぬことになったとしても悔いはない」と。

【解説】
ここで云う道とは「真理」、つまり、人間存在の実相及び宇宙一切存在の実相のこと。
人の踏み行う道、或は、人倫の道と取っても間違いではありませんが、解釈としては軽過ぎます。
死んでもいい!と云う位ですから、喩えて云うなら、釈迦の菩提樹下の悟りのようなことを云っているのではないかと思います。
孔子は自ら、「六十にして耳順い、七十にして心の欲する所に従えども矩を踰えず」と、自分の人生を語っておりますから、人倫の道は極めていたようです。
史記・孔子世家に、孔子晩年「易を読むに韋編三たび絶つ」(易経を編纂し直す為に周易を読み耽って、竹簡を綴じている革紐が何度も切れた)とありますから、易から宇宙の理法や人間存在の実相を懸命に学び取ろうとしていたのではないでしょうか。
「易経」は、孔子が編纂し直し、十翼(十本の解説書)作っておりますが、易の述べる真理だけでは飽き足らず、「朝に道を聞けば、夕に死すとも可なり」と、ポツリと漏らしたのではないかと思います。
悟りは、一度悟ればそれで終わり!と云うものではなく、無限の階梯があるようで、真理の探究には、もうこれで良い!ってことはないようですね。

【032】
()(のたま)わく君子(くんし)天下(てんか)()けるや、(てき)()(ばく)()し。()()(とも)(したが)う。

【通釈】
孔子云う、「君子が天下の物事に対処するに当っては、いいものはいい!ダメなものはダメ!と決め付けず、社会正義に叶うか叶わぬかに従って対処するものだ」と。

【解説】
適とは「いいものはいい!」、莫とは「ダメなものはダメ!」と頑なに決め付けてしまう態度のことを云います。
ものごとの善し悪しと、好き嫌いとは元々次元の違うものなのですが、我々凡人は、好きイコール善、嫌いイコール悪、と無意識のうちに判断を下してしまいがちですが、どうもこれが世の中を混乱させてしまうようですね。
真相が晦まされてしまう。
口達者の手にかかると、巧みな弁舌に翻弄されて、黒を白と思い込まされたり、逆に、白を黒と思い込まされてしまいます。
やはり「巧言令色鮮し仁」です。
新聞やテレビでこれをやられたら、殆どの人が真相を晦まされてしまうのではないでしょうか。
かのヒットラーは云ったそうです、「大衆はバカだから、同じ言葉を何度も何度も繰り返せ!」と。
これで洗脳の一丁上がりです。
「俺は絶対に大丈夫!洗脳なんかされっこない!!」と自信満々の人ほど洗脳され易く、「もしかして、洗脳されているんじゃなかろうか?」と、ビクついている人ほど洗脳され難いといいます。
義にも私的な義と公的な義がありますが、社会正義に叶うか叶わぬかとは、公的な義を優先させよ!と云うことですね、孔子の云う所は。

【033】
()(のたま)わく君子(くんし)(とく)(おも)い、小人(しょうじん)()(おも)う。君子(くんし)(けい)(おも)い、小人(しょうじん)(けい)(おも)う。

【通釈】
孔子云う、「為政者が徳治を以て政治に臨めば、人民は郷土愛に目覚めて、自主的に働くようになる。為政者が刑罰主義で政治に臨めば、人民は恵を施してもらうことばかり考えて、自主的に働かなくなるものだ」と。

【解説】
刑罰で縛りつければつけるほど、人民が自主性・主体性を失って働かなくなることは、旧ソ連や北朝鮮を見れば分かりますね。警察国家になればなるほど人民は配給を求めて、自発的に働かな くなるようです。
それにしても孔子と云う人は、人間の本性をよく見抜いています。
自由意思(思いの自由)と自由意志(選択の自由)は、万人に与えられた天与のものだから、洗脳で自由意思を、刑罰主義で自由意志を奪い取ってしまったら、人間はバカになる他はありません。
洗脳の怖い所は、本人に、洗脳されていると言う自覚が無いことです。
刑罰で体を縛りつけ、洗脳で心を縛りつけられたら、人間の皮を被った操り人形のようなものですね。
自由ほど、人を人らしく輝かせるものは、ちょっと他にはないようです。

【034】
()(のたま)わく()(より)りて(おこな)えば、(うらみ)(おお)し。

【通釈】
孔子云う、「何でもかんでも利益本位で行動すると、後で人から怨まれることが多い」と。

【解説】
利益それ自体は、本来価値中立的なもので、善でも悪でもありません。
ただ、「利益の為には手段を選ばず、自分さえ良ければそれでいい!」となると話しは別です。
利は豊かで幸せな生活を増幅する為の一つの手段でありますが、これに貪欲が結びつくと、手段の目的化が起こってしまいます。
人間は、利を得るだけの目的で生まれて来る者は一人もおりません。
中には、利を得たが為に、却って堕落してしまう場合だってある。
得なければ平凡な善人で居られたのに、得たが為に我利我利亡者に変貌してしまうケースもありますね、実際に。
徳が磨かれなかったら何にもならんのです、いくら巨万の利益を得たところで。
イエスは、「人はパンのみにて生くるにあらず」と述べておりますが、「利に放りて行えば怨み多し」を、別の角度から云ったのでしょう。
積むなら地の蔵よりも、天の蔵に富を積め!と云うことですね。
天の蔵に積む富とは、徳のことです。

【035】
()(のたま)わく(くらい)()きを(うれ)えず、()所以(ゆえん)(うれ)う。(おのれ)()()きを(うれ)えず、()らるべきを()すを(もと)むるなり。

〈通釈〉
孔子云う、「地位のないのを思い煩う暇があったら、その地位に立つに相応しいだけの実力を養え。名声の上がらないのを思い煩う暇があったら、名声を得るに相応しいだけの徳を磨け!」と。

【解説】
地位や名声に特に固執する必要は無いけれど、然るべき地位がなければ、当然の正論も通らない場合がある、所謂「ごまめの歯軋り」扱いされてしまうことがありますし、ある程度の名声が無ければどんなに素晴らしい意見であっても「馬耳東風」の如く誰も耳を傾けてくれないことがある。
残念ながらこれが現実です。
「ごまめの魚(とと)交じり」(分不相応で力も徳もない者が、たまたま運良く優れた人物の中に交じり、自分もその気になっていること)程みっともないことはありませんが、「ごまめの歯軋り」扱いされるのは口惜しいものです、練りに練って正論を述べているのに、端から雑音扱いされてしまうんですからね。
ある程度の地位や名声はあった方がいい、邪魔になるものじゃないんだから。
有力で有徳の地位名声なら大いに結構、無力で無徳の地位名声は困ります。
影響力があるだけに、周りが振り回されますからね。
因みに、有力・有徳を組み合わせると、

    一、有力で有徳の人物
    二、有力で無徳の人物
    三、無力で有徳の人物
    四、無力で無徳の人物

の四通りになりますが、さあ、あなたはどのタイプですかな?

【036】
()(のたま)わく(しん)や、()(みち)(いつ)(もっ)(これ)(つらぬ)く。曽子(そうし)()わく、()()()ず。門人(もんじん)()うて()わく、(なん)(いい)ぞや。曽子(そうし)()わく、夫子(ふうし)(みち)忠恕(ちゅうじょ)のみ。

【通釈】
孔子云う、「参(しん・曽子の名)よ、吾が人生は一つの使命で貫かれているのだよ」と。曽子は「はい、承知しております」と答えた。孔子が退出すると同席していた門人が、「曽さん、今の話しはどういう意味ですか?」と問うた。曽子は、「先生の人生は忠恕、つまり、救世の使命で貫かれているのですよ」と答えた。

【解説】
孔子が「一以て之を貫く」と述べている場面は、論語の中で二箇所あります。
一つはここと、今一つは衛霊公第十五で子貢に対して語っている。
孔子が弟子達に語るときは、常に本人の機根や性分に合わせて、様々な喩えを引きながら分かり易く説いているのですが、「一以て之を貫く」と語る二箇所に限っては、まるで謎かけ問答を聞いているようです。
頭が切れて弁の立つ子貢でも、師の想いを洞察できなかったようですから、孔子は「恕」の概念を弟子達に理解させるのは難しいと思っていたのでしょう。
論語510章中、恕と云う言葉は、衛霊公第十五にたった一度しか出てきませんし、「忠恕」と云う言葉は、そもそもが孔子の言葉ではなく、弟子の曽子が師の想いを忖度(そんたく)して述べたものです。
忠恕とは一般には、「忠・まこと、と恕・おもいやり」と解釈されておりますから、ならば仁の一つのあり方と考えても間違いではありませんが、仁とは別に「恕」を使っているのは、曰く云い難いロゴス(概念)が込められていたものと思われます。
「まことと思いやり」程度の意味ではないのではないでしょうか。
こんなこと云っていいのかどうか‥‥、初めて聞く人は面食らうかもしれませんが云ってしまいましょう、孔子は釈迦やイエスと同じ「救世主界」と云う九次元霊界(人霊としては最高の霊界)から降りてこられた方ですから、当然救世主としての使命を負って出て来られました。
「五十にして天命を知る」と自ら語っておりますから、五十才頃に救世の使命を負って生まれてきたことを悟ったのでしょう。
そこで私としては「忠恕」を「まことと思いやり」とせず、「救世の使命」と解釈させてもらった次第です。
曽子も多分その意味で「忠恕」と云う言葉を使ったのではないでしょうか?「夫子の道は忠恕のみ」と答えられた他の弟子達は、「まことと思いやり」と取ったか?「救世の使命」と取ったか?はたまたチンプンカンプンだったか?
曽子は、分かる者には分かるだろう!?と云う心境だったのではないでしょうか。
自称「論語読み」の方が、「孔子の道は忠恕の一言に尽きますね!」と語るのをよく耳にしますが、私は、「エッ?忠恕!?どうしてですか?それって曽子の言葉でしょ?孔子自らが恕と云う言葉を語っている場面は、論語510章中たった一度しかありませんが‥‥。あの切れ者の子貢でさえ、恕の概念が良く理解できなかった位の難しい言葉ですがねえ‥‥」と聞くことにしておりますが、一様にギョッとした顔をして口をつぐんでしまいます。
どなたかの書かれた解説本を読んで、受け売りで語っているんでしょうな、自分自身の見解ではなくて。
受け売りのことを陽貨第十七で「道聴塗説は徳を捨てるようなものだ!」と孔子自身語っています。

【037】
()(のたま)わく君子(くんし)()(さとり)り、小人(しょうじん)()(さと)る。

【通釈】
孔子云う、「出来た人物は、損得よりも善悪を優先し、下らない人物は、善悪よりも損得を優先する」と。

【解説】
ちょっと意訳し過ぎましたかな?
喩(さとる)とは、聡(さと)い・鋭い・敏感の意で、「君子は義に敏感で、小人は利に敏感である」と訳しても良いのですが、面白くないので上記のようにしました。
ところで皆さんは、義にも優位・劣位のちゃんとした序列があることをご存知でしょうか?
優位か劣位かを、劣位<優位の記号で表してみますと、私的義<公的義(公的な義が私的な義に優先するの意)に分かれ、更に私的義・公的義にもそれぞれ序列がある。
〔私的義の場合は〕個人レベルの義 < 血縁レベルの義
〔公的義の場合は〕地縁レベルの義< 人縁レベルの義 < 時縁レベルの義(時代の巡り合せの縁)
個人レベルの義及び血縁レベルの義を小義。地縁レベルの義を中義。人縁レベルの義を大義。時縁レベルの義を大大義と言います。
小義< 中義 < 大義 < 大大義と云うことですね。
ここを弁えておきませんと、個人エゴ〜家族エゴ〜地域エゴ、企業エゴ〜、国家エゴがごちゃ混ぜにまかり通って、混乱を招くことになる。
義と義がぶつかると、必ず争いが生じますから、一段上のレベルから見た時に一体どうなのか?
小義< 中義 < 大義 < 大大義の序列は、きちんと抑えておくべきでしょう。

【038】
()(のたま)わく(けん)()ては(ひと)しからんことを(おも)い、不賢(ふけん)()ては(うち)(みずか)(かえり)みるなり。

【通釈】
孔子云う、「優れた人に出会ったら、良きお手本として見習い、愚かな人に出会ったら、人の振り見て我が振りなおしなさい」と。

【解説】
こんなこと当たり前ではないか!と思われるかも知れませんが、世の中そうとばかりは限らない。
自分より優れた人を見ると、嫉妬して足を引っ張ってみたり、劣った人を見ると、蔑(さげす)んでからかってみたりする人も結構いますからね。
お手本には、見習うべき良きお手本と、見習うべきでない悪いお手本の二つがありますが、悪いお手本から学ぶことは案外多いものです。
「もしかして自分もこうではなかろうか?」と、気付きのきっかけを与えられ、身につまされることって結構あるものです。

【039】
()(のたま)わく古者(いにしえ)(ことば)()(いだ)さざるは、()(およ)ばざるを()ずればなり。

【通釈】
孔子云う、「昔の人が軽々しく言葉を口にしなかったのは、やることが云うことに及ばないのを恥じたからである」と。

【解説】
関西方面では、口先だけで実行の伴わない人物を称して「うどん屋の釜」と云うそうです。
うどん屋の釜の中は「湯だけ」、つまり「云うだけ」の人と云うことですね。
そう云えば、近年の政治家は「うどん屋の釜」が多いねえ。
マニフェストなどと洒落た言葉を使わず、「うどん屋の釜通信」か何かにしたらいいんじゃないですかね、ちょっとひど過ぎますもの。

【040】
()(のたま)わく(とく)()ならず、(かなら)(となり)()り。

【通釈】
孔子云う、「徳のある人物は孤立することがない。必ず共鳴する人が現れるものである」と。

【解説】
高邁(こうまい)なことほど、初めは中々理解してもらえず孤軍奮闘するものですが、そのうち一人・二人・三人と共鳴者・同調者・信奉者が現れて来て、気がついたら巨大な集団が形成されていた、などと云うことが、たまにあります。
孔子教団も、孔子三十にして私塾を始めた頃は数人の弟子だったものが、晩年には三千人を越えていたと云われます。
ただ、いつまで経っても孤軍奮闘するばかりで、一向に共鳴者が現れないというのは、その人に徳がないということですね。
「人貧乏」している人は間違いなくこれ、中でも仁の徳が欠落している、所謂(いわゆる)思いやりに欠ける人がこうですね。
思いやりのない人の所には、誰も寄って来ません。
寄って来るのは、利用してやろうとする下心のある者ばかりです。
利用価値がなくなったらポイです。
前にも云ったように、思いやりの心・惻隠(そくいん)の情は、人が生まれつき持っている本能のようなものです。
万人がミラーニューロンと云う脳神経細胞を持っているのだから、素直にそれに従えば良いのです。
徳は総て仁ベース(土台)、仁不在の義は暴虐を極め、仁不在の礼は虚礼となり、仁不在の知は狡猾(こうかつ)な知となり、仁不在の信は盲目の信となる。
「徳は総て仁ベース」、カクテルを作る要領‥‥と覚えておいたら良いでしょう。


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