【041】
或るひと日わく、雍や、仁にして佞ならず。子日わく、焉んぞ佞を用いん。人に禦るに口給を以てすれば、屢々人に憎まる。其の仁を知らず、焉んぞ佞を用いん。
【通釈】
ある人が、「雍は仁者だが、残念ながら弁舌の才がない」と評した。これに対して孔子は、「何も弁才などなくても良い。人に対して舌先三寸で言いくるめようとすれば、しばしば人に憎まれるのが落ちだ。雍が仁者であるかどうかは知らんが、弁才などなくても良いのだ」と云った。
【解説】
雍とは弟子の名で、姓は冉(ぜん)名は雍、字は仲弓(ちゅうきゅう)。
徳行に優れた十哲の一人。孔子より29才年少。
寡黙でどっしりと落ち着いた人物だったようですが、孔子家語の「弟子行」に、人を滅多に褒めたことのない子貢が仲弓を評して、「貧にあること客の如く、その臣を使うに借りたるが如く、怒りを遷さず、怨みを深くせず、急罪を録せざるは、これ冉雍の行なり」と述べておりますから相当出来た人物だったようです。
明代末期の儒者・呂新吾(りょしんご)と云う人は、「呻吟語」という著書の中で、人物を一流・二流・三流に分けて次のように論じています。
一、深沈厚重なるは是れ第一等の資質(一流の人物)。
二、磊落豪雄なるは是れ第二等の資質(二流の人物)。
三、聡明才弁なるは是れ第三等の資質(三流の人物)。
仲弓は深沈厚重の第一等の人物だったようですね。
現代は、頭が切れて弁が立つ所謂聡明才弁タイプを一流の人物と勘違いしているようですが、これは三流なんですね、本当の所は。
寡黙でどっしりと落ち着いた人物、これが一流です。
【042】
子、子貢に謂いて日わく、女と回と孰れか愈れる。対えて日わく、賜や何ぞ敢て回を望まん。回や一を聞いて以て十を知る。賜や一を聞いて以て二を知る。子日わく、如かざるなり。吾と女と如ざるなり。
【通釈】
孔子が子貢に、「お前と顔回とどちらが優ると思うか?」と問うた。子貢は、「どうして私ごときが顔回と比肩できましょう。顔回は一を聞いて十を悟りますが、私は一を聞いてせいぜい二を悟るのが精一杯ですから」と答えた。孔子は、「まことにそうだなあ。お前だけではない、実は私も顔回には及ばんのだよ」と云った。
【解説】
「一を聞いて十を知る」の出典がここ。
孔子より31才年少で、言語に優れた十哲の一人子貢は本当に頭のいい人だったようで、斉が魯に侵攻を企てた際、孔子の命を受けて、斉→呉→越→晋の諸侯や要人を説き伏せて魯を救った時の様子が、史記の孔子世家に載っておりますが、論法の鮮やかさには舌を巻いてしまいます。(興味があったら一度読んでみて下さい)
因みに、越王勾践(こうせん)が宿敵呉王夫差(ふさ)を伐って、呉越の争いに終止符を打つことが出来たのは、子貢の策略によるものであることを史記は伝えております。
大兵法家の孫武(そんぶ・孫子の兵法の著者)は、この時既に呉を去っておりましたが、もし孫武が呉に残っており、子貢と対論していたらどうなっていたか?
そう易々と子貢の口車に乗せられることはなかったのではないか?呉が負けることがなかったのではないか?と思いますが、歴史にイフは禁物ですかな。
【043】
宰予、昼寝ぬ。子日わく、朽木は雕るべからず、糞土の牆は杇るべからず。予に於てか何ぞ誅めん。子日わく、始め吾人に於けるや、其の言を聴きて其の行いを信ず。今吾人に於けるや、其の言を聴きて其の行いを観る。予に於てか是を改む
。
【通釈】
宰予が昼寝をした。これを知った孔子は、「朽ちた木には彫刻のしようがない。腐った土塀には上塗りのしようもない。予のような奴には何を云っても無駄だな!」と云った。更に言葉を継いで、「今迄私は人に対して、その言葉を聴けばそのまま実行されているものと信じていたが、今後は言葉だけでなく、その行いをじっくり観察してから決めることにしよう。予に懲り懲りさせられてから人の見方を変えることにしたのだ」と云った。
【解説】
孔子がこれほど厳しく云うくらいですから、宰我はちょっと昼寝をした程度のことではないでしょう。
一説には、講義をさぼって女を引っ張り込んで淫らなことをしていたのだ、と云う説もありますが、孔子をこれほど怒らせるのですから、恐らくそれに近いことをやっていたのではないかと思います。
記録が残っていないのではっきりしませんが、宰我は孔子より29才年下で、仲弓や冉求と同世代ではないかと思います。
これほど厳しく叱責されても、本人はケロッとしていたようで、破門された形跡はありませんし、言語に優れた十哲の一人として高く評価されています。
孔子にとっても、気掛かりな弟子だったのではないかと思います。
宰我は、後に斉の臨輜(りんし)の大夫となりますが、田常(でんじょう)の謀反に加担して、一族皆殺しにされてしまいます。
【044】
子曰わく、寗武子、邦に道有るときは則ち知なり。邦に道無きときは則ち愚なり。其の知は及ぶべきなり。其の愚は及ぶべからざるなり。
【通釈】
孔子云う、「衛の大夫寗武子は、国が良く治まっている時は表に立って知者として辣腕を振るい、国が乱れた時は裏に回って愚者のように損な役回りを演じた。調子のいいときに利口者ぶることは誰でもできるが、国難に当って愚直を貫ける者はちょっといないな」と。
【解説】
利口者ぶることは誰でもやるが、敢て愚か者ぶることは誰もやりたがらない。
俗諺(ぞくげん)で云うなら、利口・バカより、バカ・利口がはるかに上手と云うことです。バカ・利口になるのは孔子でさえ難しい!と云っておりますから、寗武子と云う人は、余程出来た人物だったのでしょう。
南宋時代の儒者朱子は寗武子について、「成公(衛君)道無く、国を失うに至り、武子其の間に周旋し、心を尽くし、力を尽くし、艱難を避けず。
凡そ其の処(お)る所は、皆知巧の士の避けて肯(あえ)て為さざる所の者なり。しかも能く卒(つい)に其の身を保ちて以て其の君を済(すく)う。是れ其の愚の及ぶべからざるなり」と、並々ならぬ人物であったことを讃えてます。
中身はともかく、外見だけでも利口者に見られたいというのが我々凡人の習性なのでしょうが、気をつけないといけませんね、世の中明き盲ばかりじゃない、見る人はちゃんと見ていますから。
【045】
顔淵・季路侍す。子日わく、盍ぞ各々爾の志を言わざる。子路日わく、願わくは車馬衣裘、朋友と共にし、之を敝りても憾むこと無からん。顔淵日わく、願わくは善に伐ること無く、労を施すこと無からん。子路日わく、願わくは子の志を聞かん。子日わく、老者は之を安んじ、朋友は之を信じ、少者は之を懐けん。
【通釈】
顔淵と子路が孔子の側でくつろいでいた時、孔子が、「どうだお前達、自分の志を云ってみては?」と云った。子路は、「車でも馬でも、上等な衣服でも毛皮のコートでも、友人に貸してボロボロに使い古されても惜しいと思わない、太っ腹の人間になりたいと思います」と答えた。顔淵は、「善いことをしても誇ることなく、骨折り仕事を人に押し付けない、ほのぼのとした人間になりたいと思います」と答えた。子路が「ひとつ先生の志を聞かせて下さい」と云ったので、孔子は、「老人が安心して暮らせ、友達同士が信頼しあい、若者が夢を持てる世の中にしたいものだ」と答えた。
【解説】
これが2500年前の言葉でしょうか?何だか現代のことを云っているような気がしますが‥‥。
現代人は、理想とする世界像・理想とする国家像・理想とする社会像・理想とする家庭像・理想とする人間像を自ら描けなくなっているのではないでしょうか。
サミュエル・ウルマンの「青春」と云う詩に「青春とは人生のある期間を云うのではなく、心の様相を云うのだ。優れた想像力、逞しき意志、炎ゆる情熱、怯懦(きょうだ・臆病で気が弱いこと)を却(しりぞ)ける勇猛心、安易を振り捨てる冒険心、こういう様相を青春と云うのだ。年を重ねただけで人は老いない。理想を失う時に初めて老いが来る。歳月は皮膚の皺を増すが、情熱を失う時に精神はしぼむ」とあります。
具体的な理想像は描けなくても、「安・富・尊・栄」の世界像なら思い描くことが出来るのではないでしょうか。
安‥‥平安で(戦争の無い平和な世界)
富‥‥皆が豊かに富み(飢餓や貧困が無く)
尊‥‥お互いが神の子として尊び合い(貴賎無く総ては神の下に平等)
栄‥‥進化・繁栄し続ける世界(無限に進化する)
分かち合い・助け合い・生かし合い、許し合いながら、一人一人が自由に個性を開花させてゆける世界。
早くこういう世界を造りましょう!
自分さえ良ければ、我が社さえ良ければ、我が国さえ良ければ、などと云う人は、もうどこか別の星に移住してください。
地球文明を、これ以上汚さないで欲しい!!
宇宙には、未開で野蛮で、エゴイスティックな星がまだまだ沢山ありますから、そこで思う存分エゴを堪能してください。
この星(地球)は、もうそう云うレベルは卒業したんです。
【046】
子日わく、已んぬるかな。吾未だ能く其の過ちを見て、内に自ら訟むる者を見ざるなり。
【通釈】
孔子云う、「ああどうしようもないなあ!私はまだ自分の犯した過ちに気付いて、自発的に己の非を悔ゆる者を見たことが無い」と。
【解説】
前にも云いましたが、人間は、知って犯す過ちよりも、知らずに犯してしまう過ちの方が断然に多い生き物です。
つまり、過ちに気付かないことが多い。
気付かないから、ケロッとしていられる。
孔子がここで云っている「自訟(じしょう)」とは、自己訴訟、つまり、自ら知らずに犯してしまった過ちがなかったかどうか?内なる良心に問うてみて、反省し悔い改めなさい!と云うことですね。
自訟→反省→改過、人生はこれの繰り返しです。
里仁第四 ← 公冶長第五 → 雍也第六