【086】
孔子、郷党に於て、恂恂如たり。言うこと能わざる者に似たり。其の宗廟朝廷に在すや、便便として言い、唯謹めるのみ。
【通釈】
孔子が地元の人達といる時は、穏やかで恭(うやうや)しく、ろくに口もきけない者のようであった。しかし、一度宗廟で祭祀を執り行う時や、朝廷で政務をとる時は、明快に論じた。ただ、いつも慎み深さは失わなかった。
【解説】
この郷党第十編は、孔子の日常生活を記したものですが、意外にも孔子と云う人は、オシャレでもありグルメでもあったことがうかがえます。何本か紹介してみることにしましょう。
【087】
君子は紺緅を以て飾らず。紅紫は以て褻服と為さず。暑に当りて縝の絺綌し、必ず表して之を出す。緇衣には羔裘、素衣には麑裘、黄衣には狐裘。褻裘は長く、右の袂を短くす。必ず寝衣有り、長一身有半。狐貉の厚き以て居る。喪を去いては佩びざる所無し。帳裳に非ざれば、必ず之を殺す。羔裘玄冠しては以て弔せず。吉月には、必ず朝服して朝す。斉すれば必ず明衣有り、布なり。
【通釈】
孔子の服装はどうかといえば‥‥、紺色や赤茶色の布で襟や袖口を縁取りしない。紅や紫の色は普段着に用いない。暑い日は葛糸で織った単衣の上衣を着用したが、必ず下着を着た。黒い上衣の裏地には子羊の黒い毛皮、白い上衣の裏地には小鹿の白い毛皮、黄色い上衣の裏地には狐の黄色い毛皮というように内と外に同系統の色を用いた。普段着る毛皮は長めにゆったりと作り、右の袂(たもと)を短くした。寝る時は必ず寝巻きを着た。寝巻きの丈は身長の1.5倍であった。家に居る時は、狐(キツネ)や狢(ムジナ)の毛皮を厚く敷いて座った。喪に服する時以外はアクセサリーをつけた。礼服の袴(ハカマ)にはひだ付きのものを着用したが、それ以外はひだ無しのものをはいた。黒い毛皮や黒い冠では弔問に行かない。引退後も毎月一日には必ず礼服を着て参内(さんだい)した。祭祀の為に斎戒沐浴した時は、必ず麻布で作った純白の浴衣を着用した。
【解説】
いかがですか?孔子のこのセンス。表地と裏地を同系統でまとめたり、アクセサリーをつけたり、ひだ付きひだ無しのスカートを使い分けたり、中々どうしてオシャレでしょ。次には食生活を見てみますか。
【088】
斉すれば必ず食を変じ、居は必ず坐を遷す。食は精を厭わず、膾は細きを厭わず。食の饐して餲せると、魚の餒れて肉の敗れたるは食わず。色の悪しきは食わず。臭の悪しきは食わず。飪を失えるは食わず。時ならざるは食わず。割正しからざれば食わず。其の醤を得ざれば食わず。肉は多しと雖も、食の気に勝たしめず。唯酒は量無く乱に及ばず。沽う酒と市う脯は食わず。薑を撤てずして食う。多くは食わず。公に祭れば肉を宿めず。祭の肉は三日を出さず。三日を出ずれば、之を食わず。食うには語らず、寝るには言わず。疏食と菜羮と瓜と雖も、祭れば必ず斉如たり。
【通釈】
祭祀の為に斎戒沐浴(さいかいもくよく)する時には、必ず普段の食事と内容を変えた。坐る場所も普段とは違った所に席を遷した。飯はよく精白したものを好んだ。膾は細かく切ったものを好んだ。飯は饐(す)えて味の変ったものは食べない。魚も臭いが変って身の崩れたものは食べない。色の悪いものは食べない。臭いの悪いものは食べない。煮方(調理)の良くないものは食べない。季節外れのものは食べない。切り目の正しくないものは食べない。料理に合った付けだれでなければ食べない。肉の量は多くても飯の分量以上は食べない。ただ酒はどれ位と分量は決めないが、酔って取り乱すことはなかった。市場で買って来る酒や乾し肉は口にしない。料理に添えてある薑は捨てずに食べる。しかし多くは食べない。主君の祭祀(さいし)で賜った肉はその日のうちに食べる。家の祭祀に供えた肉は、三日以内に食べる。三日を過ぎたものは食べない。食事中は話しをしない。寝る時は喋らない。粗末な飯や野菜の吸い物や瓜のようなものであっても、祭祀の際には必ず畏れ謹んでお供えをした。
【解説】
これが2500年前の孔子の食生活ですが、グルメですね。
味の変ったもの・臭いの変ったもの・色の変ったものを食べないのは当然としても、調理が下手なものは食べない、旬のもの以外は食べない、切り目の正しくないものは食べない、料理に合った付けだれでなければ食べない、店で買って来る惣菜は食べないとなると、妻の幵官氏(かんかんし)は大変だったのではないでしょうか。
余程の料理上手でなければ孔子の妻は務まりませんね。
「酒は量無く、乱に及ばず」とありますから、お酒は強かったようです。
【089】
厩焚けたり。子、朝より退いて曰わく、人を傷いたりやと。馬を問わざりき。
【通釈】
孔家の厩が火事で焼けた。朝廷から急いで帰ると孔子は、すぐ「人に怪我はないか!?」と云った。馬のことは何も聞かなかった。
【解説】
なんで火の気のない厩から火が出たのか不思議ですが、孔子の政治改革に反対する政敵も少なからずいたでしょうから、家人を狙った放火かも知れません。
孔子も「もしや!?」と思ったのではないでしょうか、帰るなり「人に怪我はないか!?」となった。
マッチもライターもない時代にどうやって火を得ていたのかと云うと、「燧(すい)を切る」と云って、木の棒を板の上で素早く回転させ、摩擦熱で火を起こしていたようですが、石英に鉄片を打ちつけて火を起こす「火打石(燧石)」が使われるようになるのは鉄が発明されてからになります。
孔子が生きた春秋末期には、既に鉄が武器や農具に使われておりましたから、孔子の頃には火打石が使われていたのかも知れません。
【090】
君命じて召せば、駕を俟たずして行く。
【通釈】
主君からの急な呼び出しがあった時は、馬車の支度を待たず直ちに出かけた。
【解説】
馬車の支度を待って出発したのでは遅くなってしまいますから、先ず徒歩で行き、馬車が追いついたところで乗ったのでしょう。
大夫は馬車で参上するという仕来りがあったようです。
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