八佾第三 061

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原文                 作成日 2003年(平成15年)7月から 10月

哀公問社於宰我。宰我曰、夏后氏以松、殷人以柏、周人以栗。
曰、使民戰栗也。子聞之曰、成事不説、遂事不諌、既徃不咎。
 

〔 読み下し 〕
哀公(あいこう)(しゃ)(さい)()()う。(さい)()(こた)えて()わく、()(こう)()(まつ)(もっ)てし、殷人(いんひと)(はく)(もっ)てし、周人(しゅうひと)(くり)(もっ)てす。()わく、(たみ)(せん)(りつ)せしむるなり。()(これ)()きて(のたま)わく、成事(せいじ)()かず、遂事(すいじ)(いさ)めず、既往(きおう)(とが)めず。
 
〔 通釈 〕
魯の哀公が、土地の神を祀る社(しゃ)の神木(しんぼく)について宰我に問うた。宰我は、「夏の時代には松を植え、殷の時代には柏を植え、周の時代になってから栗を植えるようになりました」と。更に言葉を継いで「栗を植えた理由は、罪を犯す者は厳しく罰するぞ!と、人民を戦慄せしむる為であろうかと存じます」と答えた。

これを聞いた孔子は、「ハテ?そんな話しは聞いたことがないが、慄(りつ)を栗(りつ)にこじつけたのか。過去の不確かな事柄については、説かず・諌めず・咎めずというのが常識なんだが、それにしても口の減らない奴だなあ、予(よ・宰我の名)は」と云った。
 
〔 解説 〕

宰我 姓は宰名は予 字は子我(しが)。子貢と同じく言語の人で十哲の一人。大変に頭の切れる人で且つ弁も立ったようですが、性格的にかなり偏った所があったようで、公冶長第五「宰予昼寝(い)ぬ・・・」では、孔子にこっぴどく叱られております。しかし、一向に堪(こた)える風もなく、カエルの面にションベンでケロッとしていたようです。

門下生の中では相当の変わり者だったようで、孔子も気掛かりな弟子だったのでしょう。宰我は、後に斉の田常(でんじょう)の謀反(むほん)に加担して落命したと云われます。

さて、この章の後段「子之を聞きて曰わく・・・」以下は何とも訳しづらく、読み下し文通りでは意味が通じませんので、宰我の性分を慮ってかなり言葉を補いました。

成事(せいじ)も遂事(すいじ)も既往も、済んでしまった過去のことの意ですから、取り返すことはできません。前にも云いましたが、「あの時ああであれば」とか「この時こうであったら」と
云った所で今更どうなるものでもない。過去のことを「説かず・諌めず・咎めず」とは、「今更、レバ・タラ云ってもはじまらない!」ということではないかと思います。

不確かな事となれば尚更です。宮崎市定は、「済んでしまったことは言い立てない。取り返しのつかぬことは諌めない。昔のことは咎めない。」と釈しておりますが、この人の解釈が一番しっくり来るようです。「今更、レバ・タラ云っても始まらない」と同じことですからね。現在の
社会通念で過去の歴史をとやかく云うのは間違っていますね。
 

〔 一言メッセージ 〕
『今の社会通念で歴史を裁いてはならない!』
  
〔 子供論語  意訳 〕
()殿様(とのさま)哀公(あいこう)が、神社(じんじゃ)境内(けいだい)()えてある樹木(じゅもく)について、弟子(でし)(さい)()質問(しつもん)した。(さい)()は、「()時代(じだい)には(まつ)()えました。(いん)時代(じだい)には(かしわ)()えました。 (しゅう)時代(じだい)になってからは(くり)()えるようになりました」と(こた)えて、()がろうとしたが、ふと(おも)()いたように「(むかし)(いた)(いた)いイガグリの(けい)というのがあって、(わる)いことをするとイガぶとんの(うえ)(はだか)()かされる(ばつ)()けたそうです。ですから(わる)いことをすると(いた)()めにあわせるぞ!と(おど)かす意味(いみ)(くり)()()えたものと(おも)われます」と()った。これを()いた孔子(こうし)(さま)は、「そんな(はなし)しは()いたことがないな。よく調(しら)べもしないでいい()(げん)なことは()ってはいけないよ。(あと)でウソだと(わか)って()ずかしい(おも)いをするのは(きみ)自身(じしん)なんだからね」とおっしゃった。
 
〔 親御さんへ 〕
この章は、大意を損なわず子供が解るように意訳するのに随分骨が折れました。孫に聞き聞き、三回程書き改めさせられましたが、それでもポカーンとしておりましたから、「解ったか?」と聞きましたら、「いい加減なことは云わない。解らないことは良く調べてから云う。そうだろう?ジッタン!」と云っておりましたから、きっと分かったんでしょう。疲れますね、こういう文章は。尚、この章は未だに意味不明とされております。
 
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