八佾第三 062

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原文                   作成日 2003年(平成15年)7月から 10月

子曰、管仲之器小哉。或曰、管仲儉乎。曰、管氏有三歸、官事不攝。
焉得儉。然則管仲知
乎。曰、邦君樹塞門、管氏亦樹塞門。
邦君爲兩君之好、有反坫
管氏亦有反坫管氏而知、孰不知
 

〔 読み下し 〕
()(のたま)わく、(かん)(ちゅう)()(しょう)なるかな。(ある)るひと()わく、(かん)(ちゅう)(けん)なるか。(のたま)わく、(かん)()三帰(さんき)あり、(かん)(こと)()ねず、(いずく)んぞ(けん)なるを()ん。(しか)らば(すなわ)(かん)(ちゅう)(れい)()るか。(のたま)わく、(ほう)(くん)(じゅ)して(もん)(ふさ)ぐ、(かん)()(また)(じゅ)して(もん)(ふさ)ぐ。(ほう)(くん)(りょう)(くん)(よしみ)()すに、反拈(はんてん)あり、(かん)()(また)反拈(はんてん)あり。(かん)()にして(れい)()らば、(たれ)(れい)()らざらん。
 
〔 通釈 〕

孔子が、「管仲の器量は小さいなあ」と云った。これを聞いたある人が、「管仲はケチな倹約家だったのですか?」と尋ねた。孔子は、「管仲は三箇所に邸宅を構えておって、使用人もそれぞれ一人一役で仕事を兼務させることがなく、贅沢な暮しをしておった。どうして倹約家などと云えようか」と云った。

そこである人は、「では管仲は礼節を知った人だったのでしょうか?」と尋ねた。孔子は、「諸侯(大名)は門の内側に目隠し用の生垣を立てて直接内部が見えないようにしているが、管仲は大夫(家老)の身分でありながら諸侯を真似て生垣を立てている。

諸侯同士が歓談する時には、盃を乗せる高坏(たかつき)を用いるが、管仲もこれを真似て高坏(たかつき)を用いた。これがどうして礼節を知るなどと云えようか。管仲が礼を知っているというなら世の中で礼を知らぬ者などいないだろう」と云った。
 

〔 解説 〕

管仲 姓は管名は夷吾(いご)字は仲。孔子より百七八十年前に生まれた人で、孔子が生まれる九十年ほど前に亡くなっている。親友鮑叔牙(ほうしゅくが)の引きで斉の桓公に仕え、富国強兵策を推進して一躍斉を大国にのしあげ、桓公を中原の覇者たらしめた名宰相。「管子(かんし)」を残す。

管子の中の有名な言葉としては、「一年の計は殻を樹うるに如くは莫なく、十年の計は木を
樹うるに如くはなく、百年の計は人を樹うるに如くはなし」や、「倉廩(そうりん)実ちて則ち礼節を知り、衣食足りて則ち栄辱(えいじょく)を知る」などがあります。

「衣食足りて礼節を知る」という諺は、ここからとったものです。孔子はこの章では管仲を批判しておりますが、憲問第十四では、管仲の功績を高く評価しております。
   

〔 子供論語  意訳 〕
孔子(こうし)(さま)が、「(かん)(ちゅう)という(ひと)は、案外(あんがい)スケールの(ちい)さい人物(じんぶつ)だったようだね」とおしゃった。これを()いたある(ひと)が、「(かん)(ちゅう)はケチンボということですか?」と質問(しつもん)した。孔子(こうし)(さま)は、「(かん)(ちゅう)(おお)きな屋敷(やしき)三軒(さんげん)()っていて、家来(けらい)大勢(おおぜい)使(つか)ってぜいたくな(くら)しをしていたようだから、ケチではないだろう」と(こた)えたら、その(ひと)は、「では礼儀(れいぎ)()っていたのでしょうか?」と(かさ)ねて質問(しつもん)したので、孔子(こうし)(さま)は、「(かん)(ちゅう)家老(かろう)身分(みぶん)であるのに殿様(とのさま)門構(もんがま)えを真似(まね)たり、殿様(とのさま)来客(らいきゃく)接待(せったい)する(とき)使(つか)うミニテーブルを真似(まね)たりしているから、礼儀(れいぎ)()っているとは()えないね。 いかに偉大(いだい)功績(こうせき)があったとは()え、うぬぼれてはいけないね」とおっしゃった。
  
〔 親御さんへ 〕

管仲は、BC645年に死んだと云われます。孔子と同時代に活躍した斉の名宰相・
晏嬰(あんえい)(公冶長第五に晏平仲(あんべいちゅう)という名前で登場する)の残した「晏子(あんし)春秋(しゅんじゅう)」には、三帰(さんき)について、「管仲が年老いた為、桓公がこれを憐れんで、その功績に報いる為に三帰(三つの邸宅)をプレゼントした」とありますし、史記「管晏(かんあん)列伝(れつでん)」には、「管仲の富(とみ)公室に擬(ぎ)し(匹敵し)、三帰・反拈(はんてん)あり。斉人(せいひと)以て侈(おご)ると為さず」とありますから、管仲は孔子が云うように侈ったり自惚れたりする人物ではなかったようです。

「管子」を読んで見ましても、随分立派な人物であったことがうかがわれます。
大聖孔子と雖も人の子ですから、たまには勘違いすることだってありますよ。
  

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