里仁第四 079

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原文       作成日 2003年(平成15年)11月から12月    
子曰、能以禮讓爲國乎、何有。不能以禮讓爲國、如禮何。
 
〔 読み下し 〕
()(のたま)わく、()礼譲(れいじょう)(もっ)(くに)(おさ)めんか、(なに)()らん。(よく)礼譲(れいじょう)(もっ)(くに)(おさ)めずんば、(れい)如何(いか)にせん。
 
〔 通釈 〕
孔子云う、「礼節と譲り合いの精神を以て国を治めるならば、国を治めるぐらい何の難しいことがあろうか。もし国を治めるのに、礼節も譲り合いの精神も欠いていたら、如何に制度が整っていたとしても、何ともならんものだ」と。
 
〔 解説 〕

孔子は大司冦(総理大臣と法務大臣を兼ねたようなもの)を務めた人ですから、制度や法制が常に後手後手に廻ることを、身を以て痛感していたのでしょう。礼節や謙譲の精神は一人一人の心掛け次第であって、法律で取り締まる訳には参りません。法律に規定されていなければ何をやってもいいとなりますと、世の中は利己心の吹溜まりとなって、欲と欲の相克する修羅場と化してしまいます。これに「待った!」をかけるのが道徳なんですね。

道徳とは、自分で自分を律する規範ですから、道徳観念のしっかりしている社会程、コストがかからない。法律を犯せば刑罰が待っていますから、ある程度セーブがかかりますが、道徳を犯しても何の刑罰もありませんから、煩悩剥き出しの社会を招来しかねない。道徳を犯した時、法を犯した時の刑罰に相当するものが、実は恥を知る心「廉恥心」なんですね。

廉恥心とは喩えてみれば、「内なる裁判官」と云っていいでしょう。恥という字も面白いですね、分解すると耳+心ですから、「自分の心に耳を当てて、内なる良心の声を聴け!」とも解釈できます。やはり「内なる裁判官」ですよ。

恥を知る心は、子供の頃から植え付けられていないと、中々育たないものです。人間から「恥」というものを取り去ったら、裸のサルですね。何が美徳で何が悪徳か!美徳は誇り悪徳は恥!恥は心の裁判官!!これはしっかりと子供に教えておかなければなりませんね。
 

〔 一言メッセージ 〕
『恥を知る心は内なる裁判官』
 
〔 子供論語  意訳 〕
孔子(こうし)(さま)がおっしゃった、「(みな)(ゆず)()いと()かち()いの気持(きもち)()てば、充分(じゅうぶん)()()りて、(ゆた)かで平和(へいわ)社会(しゃかい)(きず)ける。(おれ)(もの)(おれ)(もの)(ひと)(もの)(おれ)(もの)(よく)()って一人(ひとり)()めしようとするから、不足(ふそく)(しょう)じて()()にしたり戦争(せんそう)()きたりする。だから君達(きみたち)(ゆた)かで平和(へいわ)()(なか)にしたいと(おも)ったら、(ゆず)()()かち()いなさい!」と。
 
〔 親御さんへ 〕

子供に悪知恵がついて来るのは、小学校高学年から中学生にかけてでしょうか。これは仕様のないことで止めようがありません。必要悪みたいなものですから。ただ、悪知恵を野放しにしておきますと、自己増殖して良い智恵を駆逐してしまいますから、どこかで歯止めをかけなければなりません。その歯止めの役割をするのが「恥を知る心」なんですね。

恥を知る心とは、自己を律する「内なる裁判官」のようなものですから、ここがしっかり植え付けられていると、そうそう破廉恥なことはできなくなるものなんです。欧米キリスト教国で云う「罪の意識」が、日本人に於ける「廉恥心」と考えて良いかと思いますが、こういう心は、誰かが教え植え付けてやらないと、育つものではありません。放ったらかしにしておいて、自得できるものではないんです。

廉恥心を植え付けてやるのが血縁の役目、その中でも一番身近な教師が親なんですね。廉恥心を植え付けるには、美徳と悪徳の別をはっきりと教えることです。美徳とは「美しく貴いこと」、悪徳とは「醜く賤しいこと」だと。
 

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