公冶長第五 100

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原文         作成日 2004年(平成16年)2月から3月

孟武伯問、子路仁乎。子曰、不知也。叉問。子曰、由也、千乘之國、
可使治其賦也。不知其仁也。求也何如。子曰、求也、千室之邑、
百乘之家、可使爲之宰也。不知其仁也。
赤也何如。子曰、赤也、
束帶立於朝、可使與賓客言也。
不知其仁也。
 

〔 読み下し 〕
(もう)()(はく)()う、()()(じん)なりや。()(のたま)わく、()らざるなり。(また)()う。()(のたま)わく、(ゆう)や、千乗(せんじょう)(くに)()()(おさ)めしむべきなり。()(じん)()らざるなり。(きゅう)やいかん。()(のたま)わく、(きゅう)千室(せんしつ)(ゆう)百乗(ひゃくじょう)(いえ)(これ)(さい)たらしむべきなり。()(じん)()らざるなり。(せき)やいかん。(せき)束帯(そくたい)して(ちょう)()ち、賓客(ひんきゃく)()わしむべきなり。()(じん)()らざるなり。
 
〔 通釈 〕
魯の大夫孟武伯が、「子路は仁者ですか?」と問うた。孔子は、「分かりません」と答えた。孟武伯が重ねて問うたので、孔子は「子路は兵車千乗を出す程の大国で、軍務を扱わせるだけの力量はありますが、仁者かどうかは分かりません」と答えた。

「それでは冉求はどうですか?」と尋ねると、孔子は「求は戸数千戸の邑(むら)や、兵車百乗を出す大夫の家の代官位は充分務まりますが、彼が仁者かどうかは分かりません」と答えた。

「それでは公西赤はどうですか?」と尋ねると、孔子は「赤は衣冠束帯して朝廷に立ち、外交業務に当らせることは出来ますが、彼が仁者かどうかはわかりません」と答えた。
 
〔 解説 〕

(せき) 姓は公西(こうせい) 名は赤(せき) 字は子華(しか)。弟子の中では最も礼法に通じていたとされる。雍也第六で、孔子が公西華を斉に使いさせた際、「赤は立派な馬に乗り、上等な毛皮を着込んでおった」と云い、更に当時の格言を引用して、「君子は急(とぼ)しきを周(すく)うて富めるに継がず」と云っておりますから、公西華の家は比較的裕福だったようです。

孔子は三人の門人それぞれの手腕・力量は認めているものの、仁者(人格者)かどうかについては、「分かりません」と答えている。ちょっとやそっとの人格者では、仁者とはしなかったようで、論語の中で孔子が固有名詞を挙げて仁者と認めているのは、伯夷(はくい)と叔斉(しゅくせい)二人位の者ではないでしょうか。(述而第七「仁を求めて仁を得たり」)伯夷と叔斉のエピソードについては、その章で紹介致します。

孔子は弟子の就職探しに骨を折っておりましたから、家老から三人の人となりについて聞かれたときは、「チャンス!」と思ったのではないでしょうか、仁者とは云えないが、これこれの
才能がある!と本人達の希望を代弁している。孔子はここで述べた三人の資質は、孔子の臆断ではなくて、本人達の希望なんですよ!(エッ?なんて顔をしないでくださいよ。皆さんはもう三回も論語をやっているんだから)ウソだと思うなら、先進第十一 155頁〜160頁をもう一度読んでみて下さい。

子路と曽皙と冉有と公西華が孔子と歓談していた時、孔子が「お前達は、いつも自分を知ってくれる者がいないとぼやいているが、もしお前達を認めてくれる者があったらどうするつもりだね?」と意見を求めた際に、子路・冉有・公西華が代る代る「自分はかくありたい!」と述べた抱負を、本人達の資質として孟武伯にしっかりと売り込んでいるんですね。勿論三人にそれらの資質があることは、孔子自身充分に認めていた訳ですが。
 

〔 子供論語  意訳 〕
()(くに)大臣(だいじん)(もう)()(はく)が、「()()人格者(じんかくしゃ)ですか?」と質問(しつもん)した。孔子(こうし)(さま)は「さあどうでしょうか?」と(こた)えた。(もう)()(はく)(かさ)ねて質問(しつもん)したので、「(ゆう)戦車(せんしゃ)千輌(せんりょう)保有(ほゆう)する大国(たいこく)陸軍(りくぐん)大将(たいしょう)をやれるだけの(ちから)はあります。しかし、人格者(じんかくしゃ)かどうかとなると、(なん)とも()えませんね」と(こた)えた。「それでは(ぜん)(きゅう)はどうですか?」と()うたので、孔子(こうし)(さま)は「(きゅう)地方(ちほう)都市(とし)知事(ちじ)や、戦車(せんしゃ)百輌(ひゃくりょう)保有(ほゆう)する小国(しょうこく)長官(ちょうかん)(ぐらい)充分(じゅうぶん)(つと)める(ちから)はあります。ただ人格者(じんかくしゃ)()えるかどうか」と(こた)えた。「では(こう)西赤(せいせき)はどうですか?」と(また)()うたので、孔子(こうし)(さま)は「(せき)礼装(れいそう)して(くに)外交(がいこう)業務(ぎょうむ)()仕切(しき)(ちから)充分(じゅうぶん)あります。これも人格者(じんかくしゃ)()えるかどうかとなると、(なん)とも()えませんね」と(こた)えた。
 
〔 親御さんへ 〕
この章とは直接関係ありませんが、孔子の流浪中、魯の国の宰相(総理大臣)を務めたのは、論語にもしばしば登場する季康子(きこうし)です。彼が孔子を魯に呼び戻そうと、まず手始めに孔子に同行している冉求を招聘します。

季康子の後ろ盾を得た冉求は、かつての孔子の政敵の排除に奔走したのではないでしょうか、冉求の尽力で孔子は漸く魯に帰ることが出来ました。(仮名論語60頁に「帰らんか、帰らんか・・・」と、嬉しさを押さえ切れない孔子の言葉がある) 

孔子は魯の大司寇(司法長官)を辞した後、14年間も放浪生活を続けますが、理想の政治を説く為に諸国を周遊したと云うよりは、亡命生活に近かったようです。政敵が健在のうちは、故郷に帰りたくても帰れなかったのかも知れません。好き好んで亡命生活を続ける人などおりませんからね。
 
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