公冶長第五 114

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原文         作成日 2004年(平成16年)2月から3月
子在陳曰、歸與歸與。吾黨之小子、狂簡斐然成章。不知所以裁之。
 
〔 読み下し 〕
()(ちん)()りて(のたま)わく、(かえ)らんか、(かえ)らんか。()(とう)小子(しょうし)狂簡(きょうかん)()(ぜん)として(しょう)()す。(これ)(さい)する所以(ゆえん)()らざるなり。
 
〔 通釈 〕
孔子が旅先の陳に滞在していた時に云った、「帰ろう!帰ろう!故郷の若者達は、志は大きいが粗削り過ぎる。まるで美しい錦を織り上げていながら、これを裁断して衣服に仕立てる方法を知らずにいるようだ。魯に帰って我が道を伝えることにしよう」と。
 
〔 解説 〕

BC484年、この時孔子69才。恐らく、魯の宰相季康子に仕えていた冉求から「先生、受け入れ体制が整いました。至急帰国して下さい」との連絡が入ったのではないでしょうか?望郷の念に駆られた孔子は、思わず「さあ帰ろう!」と言葉を発した。もしこの時冉求がもたもたして、孔子が陳で野垂れ死にでもしていたら、孔子教学(儒学)は成立することなく、勿論「論語」が編纂されることもなかったでしょう。
 
冉求も子路同様、何だかんだと孔子に叱られておりますが、儒学をやる者にとって、この人は大恩人と云っていいでしょう。伊藤仁斎はこの時の状況を、「夫子ここに於いて魯に帰りてこれを裁せんと欲す。これ教法の立つ所以なり。ああ盛んなるかな。これ夫子一身の不幸なりと雖も、万世の学者にありては則ち実に大至幸なり」と述べている。
 

〔 子供論語  意訳 〕
孔子(こうし)(さま)旅先(たびさき)(ちん)滞在(たいざい)していた(とき)一足(ひとあし)(さき)()(くに)(かえ)っていた、弟子(でし)(ぜん)(きゅう)から、「先生(せんせい)そろそろ帰国(きこく)して(くだ)さい」との連絡(れんらく)(とど)いた。孔子(こうし)(さま)、「さあ(かえ)ろう、さあ(かえ)ろう! 、故郷(こきょう)若者(わかもの)(たち)はやる()満々(まんまん)だがやり(かた)()らないようだ。丁度(ちょうど)(うつく)しい(きぬ)(おり)りながら、これを裁断(さいだん)して着物(きもの)仕立(したて)てる方法(ほうほう)()らないように。()(かえ)って若者(わかもの)(たち)(わたし)(みち)(おし)えることにしよう!!」とおっしゃった。
 
〔 親御さんへ 〕
55才の時に魯を去ってから放浪の旅を続けること十有四年、救世の道を行わんとしたけれども、遂にその行われないことを知った。気がついてみたら、もう七十に手の届く年になっている。ここに至って方針を一大転換し、余生を青年教育に捧げんと決意する。

晩年の孔子門下から続々と俊才が巣立って行き、それぞれが一門を成して孔子教学を伝えて行くこととなる。74才で亡くなる迄の五年間のうち、この時が「大教育者」としての孔子を決定付けたと云っても過言ではありません。

孔子は帰国してから、哀公に仕官を求められますがこれを断ります。もしこれに応じて、死ぬまで政治家をやっていたとしたら、孔子教学は成立しなかったでしょうし、論語も編纂されることがなかったでしょう。
 
孔子教学は、曽子⇒子思(孔子の孫)⇒孟子へと受け継がれて行くこととなります。
 
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