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原文
〕 作成日 2005年(平成17年)3月から6月 |
逹巷黨人曰、大哉孔子、博學而無所成名。子聞之、謂門弟子曰、吾何執。
執御乎、執射乎。吾執御矣。
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〔 読み下し 〕 |
達巷党の人日わく、大いなるかな孔子、博く学びて名を成す所無し。子之を聞き、門弟子に謂いて日わく、吾何をか執らん。御を執らんか、射を執らんか。吾は御を執らん。
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〔 通釈 〕 |
達巷という村のある人が孔子を評して、「偉大なものだなあ孔子先生は。博学で何でもござれの方なので、どれの大家か一概に名付けようがない」と云った。これを聞いた孔子が弟子達に向かって、「さて、では何か一つ位は名取りにでもなってみるか。馬術にするか?弓術にするか?取敢えず馬術でもやってみることにするか」と冗談を云った。
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〔 解説 〕 |
孔子を道徳の干物か倫理の化石のように勘違いしている人がおりますが、とんでもありません。酒も飲めば歌も歌う。オシャレでもありグルメでもありました。勿論ちゃんとユーモアを解する人でもありました。
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〔 子供論語 意訳 〕 |
達巷という村のある人が、孔子様を「何でもござれの大先生なので、どの道の専門家と紹介していいのか分からない」といった。これを聞いた孔子様は弟子達に向かって、「私は一応礼楽(礼儀作法と音楽)の専門家ということになっているのだが、人は何でもござれのチンドン屋と思っているようだ。ならば一つ馬の曲芸でもやろうか?弓曲芸でもやろうか?とりあえず馬の曲芸でもやってみるか」と冗談をいった。
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〔 親御さんへ 〕 |
孔子は満二才の時に父を亡くし、母子家庭で育ちました。更に満十六才で母を亡くしておりますから、若い頃は食わんが為生きんが為に何でもやったのでしょう、後の214章で「吾少(わか)かりしとき賤し。故に鄙事多能なり」と、つまらんことで芸達者になったと述べている。
子罕第九篇には、若い頃苦労した為多芸多能になったいきさつがいくつか紹介されておりますが、孔子は当時の一般の人には何でもござれのマルチ人間に映っていたようで、2500年間も信奉される思想を残す大人物であると気付いていたのは、顔淵と子貢と曽子の三人位のものだったのではないでしょうか!
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