子罕第九 215

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原文           作成日 2005年(平成17年)3月から6月
牢曰、子云、吾不試故藝。
 
〔 読み下し 〕
(ろう)()わく、()(のたま)う、(われ)(もち)いられず、(ゆえ)(げい)ありと。
 
〔 通釈 〕
弟子の子開(牢)が云った、「私は先生から、自分は長いこと用いられず暇があったから多芸になったのだ、と聞かされたことがある」と。
 
〔 解説 〕

牢 姓は琴(きん) 名は牢 字は子開(しかい)。本章は前章と合わせて一章とするケースが多いのですが、「牢日く」以降の文章は類記として後に付け加えられたものであろうと思われますので、テキスト通り別章としました。これが「何でも屋」孔子の本音でしょう、「求めて多芸多能になった訳ではない。やることがなかったからなっただけだ!」というのが。
 

〔 子供論語  意訳 〕
弟子(でし)(ろう)()った、「(わたし)(むかし)先生(せんせい)からこんなことを()いたことがある。自分(じぶん)(この)んで(ばん)(のう)選手(せんしゅ)になった(わけ)ではない。(ほか)(なに)もやることがなかったから、(なん)でもできるようになっただけなんだよ」と。
 
〔 親御さんへ 〕
今は亡くなりましたが、昔貿易業務を教えてくれた大先輩で、炊事・洗濯・家事(裁縫も)一切自分でこなす大変器用な方がおられました。いかついタイプの人でしたが全部自分でやる。飯を食わせてもらったり、酒を飲ませてもらったり、何かとお世話になりましたが、ある時不思議に思って「どこでそういうことを覚えたんですか?」と聞きましたら「海軍だ!」と答えて笑っていたのを思い出します。海軍では皆やらされたようですね。奥さんはやることがないものだから、「七宝焼」の先生か何かをやっていましたね。ネクタイピンとかカフスボタンを作ってもらった覚えがあります。
 
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