子罕第九 236

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原文             作成日 2005年(平成17年)3月から6月
不忮不求、何用不臧。子路終身誦之。子曰、是道也、何足以臧。
 
〔 読み下し 〕
(そこな)わず(もと)めず、(なに)(もっ)てか()からざらん。()()終身(しゅうしん)(これ)(しょう)す。()(のたま)わく、()(みち)や、(なん)(もっ)()しとするに()らん。
 
〔 通釈 〕
詩経に「人が有るのを嫉(ねた)まず、自分に無いのを妬(そね)まず。人は人、自分は自分。よきかなよきかな」という句がある。子路はこの句が気に入って、いつも口ずさんでいた。これに対して孔子は、「その程度で満足しているようでは、お前もまだまだだな」と云った。
 
〔 解説 〕

本章は前章と合わせて一章とするケースもありますが、テキストに従いました。「嫉(ねた)まず妬(そね)まず、自分は自分、人は人」というのは、それなりに立派だと思うのですが、孔子は「大したことではない!」と云う。

嫉妬心は大なり小なり誰にでもある感情だから、それに振り回されて正体を失うようなことがなければそれで良し!平常心で居られればそれで良し!何も「嫉まず妬まず、自分は自分人は人」などと、改めて自分に言い聞かせる必要などない。いやしくも君子ならば、世の為人の為、もっと他に心掛けるべきことが沢山あるだろう!?と云いたかったのではないでしょうか。

しかし我々凡人には「嫉まず妬まず、自分は自分人は人」と自分に言い聞かせることも必要ですね。
 

〔 子供論語  意訳 〕
(むかし)(ことわざ)に「(ひと)()ちものをうらやましがらず、自分(じぶん)にないのを()ずかしがらず、自分(じぶん)自分(じぶん)(ひと)(ひと)()にしない()にしない!」というものがあるが、()()はこの言葉(ことば)(だい)()きでいつも(くち)ずさんでいた。これに(たい)して孔子(こうし)(さま)は、「(もの)のあるなしを()にしないのはいいが、(こころ)()(かた)はもっと()にしてほしいな」とおっしゃった。
 
〔 親御さんへ 〕

物に執着しないという心掛けは、それ自体立派なことなのですが、ともするとそれが行き過ぎて、物に執着しないことに執着するという「逆執着」を生んでしまいます。逆執着も執着の一つに違いありませんから、中庸を得たものではありませんね。恐らく孔子は、「逆執着の罠にはまるなよ!」といいたかったのではないでしょうか。
 

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