子罕第九 240

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原文            作成日 2005年(平成17年)3月から6月
唐棣之華、偏其反而。豈不爾思。室是遠而。子曰、未之思也。夫何遠之有。
 
〔 読み下し 〕
唐棣(とうてい)(はな)(へん)として()(はん)せり。(あに)(なんじ)(おも)わざらんや。(しつ)(これ)(とお)ければなり。()(のたま)わく、(いま)(これ)(おも)わざるなり。()(なん)(とお)きことか()()らん。
 
〔 通釈 〕
『にわざくらの花がひらひらと揺れている。咲き乱れる花のように美しいあなたを、愛しく思わぬ訳ではないけれど、なにぶん家路が遠過ぎて』という流行歌を聞いていた孔子は、「何を云っているんだ!それはまだ真底惚れていない証拠だ!本当に惚れているなら、何の遠いことなどあろうか!惚れて通えば千里も一里というではないか!!」と云った。
 
〔 解説 〕

結語の「惚れて通えば千里も一里」は付け足しになりましたが、孔子はきっとこういうことを云いたかったのだと思います。<序>の「論語開眼」でも申しました通り、論語を読んだことのない人は、孔子を道徳の干物か倫理の化石のように考えているようですが、とんでもありません。

男女の機微も分からんようでは、人様に人の道を教えることなどできんのです!素顔の孔子は、酒も飲めば歌も歌う、オシャレでもありグルメでもあった。時には、弟子達に内緒でこっそりとデートにだって行って来る。運悪く弟子の子路に見つかって問い詰められると、「イヤラシイことなどしてないってば!」と、ちゃんと言い訳までしている。(雍也第六「子南子を見る・・・」)

『ほのぼのとして、何となくユーモラスで、どこか懐かしい感じがして、いつまでも無邪気な
遊び心を失わない』粋(いき)な人だったんですよ、孔子は。論語を編集した弟子達の中にも、きっと粋なセンスを持った人がいたのでしょうね、こういう文章をちゃんと残したんですから。次回からの「郷党第十」では、そんな孔子の日常生活を紹介致します。
 

〔 子供論語  意訳 〕
()(はな)のように(うつく)しいあなたは、(いま)(なに)(おも)っているのでしょうか?()んで()きたいところだけれど、(いえ)(とお)くて(ある)いて()けない。ザ〜ンネ〜ン!()という(うた)()いていた孔子(こうし)(さま)は、「この(うた)はどこかウソっぽいね。チャリンコで()けば(ひと)(ぱし)りじゃないか」とおっしゃった。
 
〔 親御さんへ 〕
孔子がザ〜ンネ〜ン!などと云う筈がありませんから、この章は読み飛ばしてもらって結構です。小学生に男女の機微など早過ぎますからね。
 
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