先進第十一 270

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原文     作成日 2005年(平成17年)10月から12月

顔淵死、顔路請子之車、以爲之椁。子曰、才不才、亦各言其子也。
鯉也死、有棺而無椁。吾不徒行以爲之椁、以吾從大夫之後、不可徒行也。
 

〔 読み下し 〕
(がん)(えん)()(がん)()()(くるま)(もっ)(これ)(かく)(つく)らんことを()う。()(のたま)わく、(さい)あるも(さい)あらざるも、(また)各々(おのおの)()()()うなり。()()す、(かん)()りて(かく)()し。(われ)()(こう)して(もっ)(これ)(かく)(つく)らざりしは、()大夫(たいふ)(しりえ)(したが)えるを(もっ)て、()(こう)すべからざるなり
  
〔 通釈 〕
顔淵が死んだ。父の顔路は先生の車を譲ってもらって、それで外(そと)棺を作りたいと請うた。これに対して孔子は、「馬鹿は馬鹿なりに、利口は利口なりに、我が子は皆可愛いいものだ。親の情が分からん訳ではないが、息子の鯉が死んだ時も、内棺だけで外棺はなかった。
 
私が自分の車を売って、徒行してまで息子の為に外棺を作らなかったのは、これでも私は大夫の末席にある立場なので、徒行して出仕する訳には行かなかったからだ」と云った。
 
〔 解説 〕

顔路とは顔淵の父、姓は顔 名は無繇(むよう) 字は路。孔子の6才下で、弟子の中では孔子に一番年が近く、冉伯牛(7才年下)と同世代の旧くからの弟子でした。

棺とは内棺、
椁とは外棺のことで、当時身分ある人の棺桶は、内棺と外棺の二重棺にしたようです。日本の皇室の棺桶は、今でも棺と椁の二重棺のようですね。(昭和天皇の大葬の礼をご覧になった方は覚えているでしょう)

「才あるも才あらざるも、亦各(おのおの)其の子と言うなり」とは、誠に味のある言葉でありまして、こういう所が人間通孔子の何とも云えない魅力ですね。

孔子晩年は官職を退いておりましたが、国老として毎月一日には朝廷に出仕していたようです。論語に哀公との会話がしばしば登場しますが、これはその時に交わされたものでしょう。
 

〔 子供論語  意訳 〕
愛弟子(まなでし)(がん)(えん)()んだ。(がん)(えん)父親(ちちおや)(がん)()は、先生(せんせい)(くるま)()って立派(りっぱ)棺桶(かんおけ)(つく)って()しいと(ねが)いした。これに(たい)して孔子(こうし)(さま)は、「できの()()(わる)()も、()()はみんなかわいいものだ。子供(こども)(ため)立派(りっぱ)棺桶(かんおけ)(つく)ってやりたいという(きみ)気持(きもち)はよく()かる。しかし、(わたし)息子(むすこ)()()くなった(とき)も、立派(りっぱ)棺桶(かんおけ)()おうとしなかったのは、(なに)(くるま)がおしいからではない。(きみ)()っている(とお)り、(わたし)(いま)でも大臣(だいじん)末席(まっせき)(つら)なっている。大臣(だいじん)がお(しろ)()(とき)は、()安全(あんぜん)(まも)(ため)(くるま)出勤(しゅっきん)するのが()まりになっていて、(ある)いて()くのはルール違反(いはん)になるからなのだよ」とおっしゃった。
  
〔 親御さんへ 〕
いくら年が近いからと云って、自分の師匠に対して「先生の車を売って、子供の為に立派な棺桶を買ってくれ!」などと云うのは、今の感覚からすれば何と厚かましいことだろうか?と思われるかもしれませんが、当時は、「朋友の間は共に財を通じ合う」つまり、困った時はお互いに融通し合うというのが当たり前の習慣で、特別に顔路が厚かましかった訳ではないようです。以後何章かに渡って、顔淵が死んだ時の様子が語られております。
 
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