先進第十一 279

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原文      作成日 2005年(平成17年)10月から12月
季氏富於周公。而求也爲之聚斂而附益之。子曰、非吾徒也。
小子鳴鼓而攻之、可也。
 
〔 読み下し 〕
()()(しゅう)(こう)より()めり。(しこう)して(きゅう)(これ)(ため)聚歛(しゅうれん)して(これ)()(えき)す。()(のたま)わく、()()(あら)ざるなり。小子(しょうし)()()らして(これ)()めて()なり。
 
〔 通釈 〕
季孫氏(季康子)は主君の魯公(哀公)よりも富裕であったが、季氏の代官となった弟子の冉求は、税を厳しく取り立てて、季氏の富を益々増やした。これを知った孔子は、「あいつは一体何を考えているんだ!?こういうことをする者を私はもう弟子とは思わん!お前達は彼に対して大いに非を鳴らしてかまわんぞ!!」と云った。
 
〔 解説 〕

ここで云う周公とは、周公旦とする説もありますが、六百年以上前の人とは富の内容も価値観も変っていますから比較のしようがありません。よって周公の血を引く当時の魯公つまり、哀公ととった方が良いでしょう。

この時孔子は本気で冉求を破門しようと思ったのかどうか?冉求は引っ込み思案の所があったようで(後の284章に出て来る)、主人の季康子に対して諌めるべき時にも遠慮して諫言しなかったのでしょう。

こんな冉求に対して、「諌めるべき時には勇気を出して諌めなさい!」と直接云う代りに、弟子達を集めて「之を攻めて可なり!」と云った。こう云えば弟子の口から、「例の件について、先生がえらくご立腹でしたよ!」と必ず冉求の耳に入ること位、孔子は百も承知の筈です。冉求も孔子の真意は充分理解したことでしょう、子貢と同世代の苦労を共にした旧くからの弟子ですから。
 

〔 子供論語  意訳 〕
家老(かろう)季孫(きそん)さんは殿様(とのさま)哀公(あいこう)よりもお(かね)()ちだった。季孫(きそん)さんの領地(りょうち)管理(かんり)をまかされた弟子(でし)(ぜん)(きゅう)主人(しゅじん)命令(めいれい)(どおり)人民(じんみん)から(きび)しく税金(ぜいきん)()()てて、季孫家(きそんけ)をますます大金持(おおがねも)ちにした。これを()った孔子(こうし)(さま)は、「人民(じんみん)をぎせいにして自分(じぶん)だけ(ゆた)かになれば()いなどというのは、とんでもないことだ!(ぜん)(きゅう)はなぜ主人(しゅじん)にはっきりといわないのだ、()自分(じぶん)さえ()ければ(ひと)はどうなろうとかまわない、というのは間違(まちが)っています!()と。こんなへっぴり(ごし)()はもう(わたし)弟子(でし)ではない!君達(きみたち)(かね)太鼓(たいこ)()らして(かれ)にはげしく抗議(こうぎ)しなさい!!」と弟子(でし)(たち)におっしゃった。
 
〔 親御さんへ 〕

金は夏の禹王の時代(四千年前)からあったと云われますが(禹が九州の金を集めて九つの鼎を作らせ、王位継承の神器(じんぎ)とした、と史記にある)、孔子の時代(二千五百年前)にはどんな物が宝玉とされたのでしょうか?金・銀・象牙・メノウ・琥珀・鼈甲・翡翠・水晶は当然あったでしょうし、この他にもシルクロードを伝って、インドやオリエントから様々な財宝が持ち込まれていたようです。宝石や貴金属の種類としては、今とあまり変わらなかったのではないでしょうか?

但し、これらは実用性のある富と云うよりは、希少性の宝物として珍重された物で、春秋戦国時代の価値観では、孫子の兵法軍形第四に、「一に曰く度(たく)、二に曰く量、三に曰く数、四に曰く称(しょう)、五に曰く勝(しょう)」とある如く、一に領土・二に領土から採れる産物や資源・三に領土内の人口や租税・四に武力・五にそれらを支える人材や技術力等が、実用性のある富、つまり国力や実力とされていた。

孫子と孔子はほぼ同時代の人ですから、季孫氏は魯公の下臣でありながら、これら五つの
全てを恣(ほしいまま)に実効支配していたのでしょう。孔子にはこれが許せなかった、僭越の甚だしいと。そこでこの時、季孫氏に対して進言する立場にあった冉求に、「お前は一体何をしているんだ!?」となった訳ですね。
 

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