憲問第十四 361

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〔原文〕
公叔文子之臣
大夫僎、與文子同升諸公。子聞之曰、可以爲文矣。

〔読み下し〕
公叔(こうしゅく)文子(ぶんし)(しん)大夫(たいふ)(せん)文子(ぶんし)(おな)じく(これ)(こう)(のぼ)す。()(これ)()きて(のたま)わく、()って(ぶん)()べし。

〔通釈〕
衛の大夫公叔文子の家臣、僎は、文子の推挙によって大夫に昇進した。孔子はこの話しを聞いて、「自分の部下とは云え、優れた人物ならば推挙して自分と同格の地位に引立てるとは、大した人物である。さすがに文という立派な諡を贈られるのに相応しい人物だ!」と云った。

〔解説〕
公叔文子の詳しいことは分かっておりませんが、死後に贈られる諡(おまりな)がこの時既に与えられていた所を見ると、孔子より二十歳位年上の人ではないかと思います。「文子(ぶんし)」なる諡号(しごう)は、当時死後に贈られる最高の称号とされておりまして、遺族にとっては大変な名誉だったようです。

勿論亡くなった当人はそんなことは分からない。丁度、聖徳太子と同じで、そのような人物は実在しなかった。実在したのは厩戸(うまやど)の皇子(おうじ)、聖徳太子は死後に贈られた称号。

身近な所では、死んでから故人につける「戒名」(法名)。皆さんはあれを仏教オリジナルだと思っているかも知れませんが、本来の釈迦仏教とは何の関係もない、日本仏教特有のものです。本来の戒名は、出家者に入門を許し、此丘(びく)になった時に授ける「授戒」を云うのですが、日本では僧侶に賢いのがいたのでしょう、鎌倉時代以降寺の金儲けの為に故人につけるようになった。(庶民に迄戒名がつけられるようになるのは、江戸に入ってから)

これは本章にあるように、元々中国で行われていた諡・生前の行いを尊んで死後に贈られる諡号(しごう)の習慣を、日本仏教がパクッたんですね。「戒名」として。ですから、現在寺がやっているような一文字いくら、院号が付くと何十万円などと云うのはお釈迦様が聞いたら腰を抜かすでしょう。還俗(げんぞく)どころか全員破門でしょう!日本の坊主は!?

迷える魂を救済するのが僧侶の使命なのに、檀家の無知につけ込んで金儲けをやっているんですから。戒名など檀家にも故人にも何のご利益(りやく)もありません。これだったら、欧米キリスト教国で幼児洗礼の時に命名される「クリスチャンネーム」の方がまだ増しでしょう、一生の本名となるんだから。

〔子供論語 意訳〕

(えい)
(こく)大臣(だいじん)公叔(こうしゅく)文子(ぶんし)家来(けらい)であった(せん)という(ひと)は、主人(しゅじん)文子(ぶんし)推薦(すいせん)によって殿様(とのさま)から大臣(だいじん)()()ててもらうことができた。このことを()いた孔子(こうし)(さま)は、「(ひと)蹴落(けお)としてでも出世(しゅっせ)したいという(ひと)(おお)いのに、自分(じぶん)家来(けらい)自分(じぶん)同等(どうとう)地位(ちい)推薦(すいせん)するなどというのは、なかなかできるものではない。立派(りっぱ)(ひと)だねえ文子(ぶんし)!」とおっしゃった。


〔親御さんへ〕
紹介するだけならまだしも、推薦するとなると慎重に成らざるを得ません。我々凡人は全知全能ではありませんから、見込違いがどうしてもある。見込違いで相手に迷惑をかけたら申し訳ありませんし、その時は推薦した者として責任を取らなければならない。推薦責任が生じます。

史記の「魏世家(ぎせいが)」に、推薦にまつわる面白いエピソードが載っています。「魏の文侯は政治顧問の李克に、魏成(ぎせい)か或いは擢(てきこう)か、どちらを宰相に就けるべきかを問うた。李克は『その件については私は門外漢ですので申し上げかねます』と辞退したが、文侯は『遠慮することはないから思う所を述べてくれ』と云った。

そこで李克は、『宰相の人事は君自ら決すべきことでありますので、私は宰相たるの五条件を述べるに留めさせていただきます。

    その一は、不遇の時にどんな人物と親しくしていたか?
                 
付き合っている人達の人品骨柄を見れば凡その察しがつきます。
    その二は、裕福になった時にどんな人や事や物に金や時間を割いたか?
                 
これを見れば何を望んでいるか、安んずる所が分かります。
    その三は、高位についた時どんな人物を推挙したか?登用したか?

                  これを見れば本人の眼力がわかります。

    その四は、窮地に陥った時に不正を働かなかったか?
                 
これを見れば節操の有る無しが分かります。
    その五は、貧乏した時に貪り取らなかったか?邪な稼業に手を染めな
                 
かったか?これを見れば志の拠り所が分かります。


この五つを見れば、どちらを宰相に就けるべきかはもはや明らかでありましょう』と云った。文侯は、『なるほど、決心がついた』と云った。退出した李克はその足で古くからの親友である擢を訪ねた。擢は、『宰相の人事について下門があったそうだが、誰に決まりそうかね?』と問うた。李克は『魏成で決まりだろうな』と答えた。

てっきり親友の自分を推挙してくれるものと思い込んでいた擢璜は、ライバルの魏成子が本命だと聞いたのでカッとして、『今迄の業績を以ってすれば、私が魏成子に劣る所は何もない。大兵法家の呉子を西部国境の司令官に推したのはこの私だ。又、文侯が東部国境の守りが脆弱なのを憂えておられた時、有能な西門豹(せいもんひょう)をここの知事に推して国境の守りを固めさせたのもこの私だ。更に中山の攻略に楽羊(がくよう)を推して成功に導き、その際中山の統治に貴殿を推したのもこの私だ。まだあるぞ、若殿の養育係に屈侯鮒(くっこうふ)を推して学問を身に付けさせたのもこの私だ。なのにどうして貴殿は私が魏成子に劣ると云うのか!?』と詰め寄った。

これに対して李克は、『確かに文侯は魏成子と貴殿とどちらが宰相に相応しかろうかと下門された。これに対して私は、そういう問題は君自ら決すべきであると申し上げ、宰相たるの五条件を上奏したまでのことだ。その五条件とは、

   一. 居ればその親しむ所を見る、
   ニ. 富めばその与(くみ)するところを見る、
   三. 達すればその挙ぐる所を見る、
   四. 窮すればその為さざる所を見る、
   五. 貧しければその取らざる所を見るというものだ。

この条件に照らし合わせれば、魏成子が宰相に任命されることは確実だ。魏成子は棒給の九割をさいて人材を養い、自分は残りの一割で暮している。その結果、魯の孔子の高弟である子夏をはじめ、その弟子の田子方(でんしぼう)・段干木(だんかんぼく)などと云った天下に名だたる大学者を魏の国に迎えることができた。しかも、文侯ご自身この三人に師事しておられる。

貴殿も棒給を割いて人材を養っているし、私も含め五人の人物を文侯に推挙して、それぞれに役立っていることは事実だ。しかしよく考えてみてくれ。貴殿が推挙した五人は、五人とも文侯の家来になっているに過ぎないが、魏成子が推挙した三人は、みな文侯の師となっているではないか。

このことを見れば、どうして貴殿が魏成子に劣らないなどといえようか?』と。これを聞いた擢璜はただ一言、『分かった!』と云って頭を下げた」。ちょっと長くなりましたが、これが有名な人物鑑識法「五観法」の出典です。現代でも立派に通用しますから、一度使ってみてはいかがですか?
 

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