衛靈公第十五 404

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〔原文〕
子曰、不曰如之何
如之何者、吾末如之何也已矣

〔読み下し〕
子曰(しのたま)わく、(これ)如何(いかん)(これ)如何(いかん)()わざる(もの)は、(われ)(これ)如何(いかん)ともする()きのみ。

〔通釈〕
孔子云う、「なぜだろう?どうしてだろう?と常に問題意識を持たぬ者は、私としてはどうしようもない」と。

〔解説〕
問題意識を持たぬ者はどうしようもない!と孔子は云う。ただ、問題意識にも正しい問題意識と間違った問題意識がありますから、問題意識なら何でも良いということではありません。402章の[親御さんへ]でも述べたように、間違った問題意識とは、無知による誤った前提から発する問題意識のことでありまして、これではどこ迄行っても正しい答えは得られません。インプットを間違えば正しいアウトプットが得られないのと同じです。スルメを解剖してイカを研究しようとするようなものですね。


他人事ではなく、これは私達も時々やってしまいますから、呉々も用心しなくてはなりません。先入観念や固定観念を無自覚・無前提に正しいと信じ、更にこれを前提として問題の是非を断じてしまうからね、我々凡人は。先入観年や、固定観念の間違いを指摘されて、「ああそうか!」と気付くのなら救いようもあるけれど、こういう人は稀で、大半が「聞きたくない!」と耳を塞いでしまうか、「価値観の違いでしょ?」と逃げてしまう。こうなるともう手の施しようがありません、孔子の「吾之を如何ともするなきのみ」ですね。自分に対して素直じゃないんです、他人から刷り込まれた観念を自分自身の価値観と思い込んで生きている訳ですから。

そこで、「価値観は違って当然、だから聞いているので、この件についてあなたは本当はどのように認識しているのか?聞かせてくれ。認識が狂っていたら価値観が狂うものもこれ当然なのだから」などと云おうものなら、大概は怒り出してしまう。こういう時は怒ったらそこで負けなんだね。

うっかり自分の認識をしゃべったら、そこを又突かれて恥をかかされてしまう、恥はかきたくない!何とか自己防衛したい!!そこでとる手段が、怒るか?話をスリ替えるか?と、昔から相場が決まっているんです、こういうことは。

正しい問題意識を持てば、正しい答えが得られる。逆説的に云うと、正しい答えを得たければ、正しい問題意識を持ちなさい!ということだね。つまり、問題意識を持つことは大いに結構だが、どのような問題意識を持つか?その中身の如何で、同時に自分の認識力が問われているということです。

 〔子供論語 意訳〕
孔子(こうし)(さま)がおっしゃった。「なぜだろう?どうしてだろう?と疑問(ぎもん)(おも)うこともなく、(いち)から(じゅう)まで(ひと)()われるままに行動(こうどう)したら、それは自由(じゆう)意思(いし)()った人間(にんげん)ではなく、あやつり人形(にんぎょう)だよ」と。

〔親御さんへ〕
子供が「なぜ?」と聞いてきたら、面倒臭がらずきちんと答えてあげて下さい。「どうして?」と聞いて来たら即答せず、「どうしてかな?一緒に考えてみよう」と云ってヒントをいくつか与えて「君はどう思う?」と聞き返して見て下さい。「こうでしょう?こうでしょう?」と、子供は子供なりに推理力を働かせて答えを導き出そうとします。途中で行き詰ったら、そこで又次のヒントを出す。ヒントを三段階くらいに分けて上手く誘導してやると、大概、「わかった!」と大喜びする。

「そう!よくわかったね、偉いぞ!!」と云って頭を撫でてやる。こうすることで子供は考えることが楽しくなって、自分で考える習慣が身に付いて来ます。いきなり模範解答を与えてしまうと、自分で考えることをしなくなります。「考える葦」ではなく、「反応するだけのパブロフの犬」になってしまうんですね。

学校優等生や受験秀才が、社会に出たらタダの人になってしまう理由もこれです。学校では初めから模範解答のある問題を解けば優をもらえるけれども、一旦社会に出れば、毎日が応用問題の連続で、初めから模範解答などある訳がない。悪戦苦闘しながら自分で答えを発見して行く他はない。

この時威力を発揮するのが、子供の時に身に付けた「自ら考える習慣」と「考えることの楽しさ」なのです。そうだねえ、仕事柄いろんな人にお会いするけれど、「いい仕事をするなあ!」と思う人は、例外なく「自ら考える習慣」を身につけていて、「考えることの楽しさ」を知っている人のようですね。自ら考える習慣のない人は、何をやらせてもダメだね。これは、学歴や血筋とはあまり関係ないようです。

答えを自らに求め、自分で考えた自分の人生を楽しく生きるのと、答えを他に求め、他人の考えた他人の人生を模倣して生きるのと、どっちが幸せか?と云えば、滑ったり転んだりがあったとしても、断然前者の方が幸せでしょう。自分は人の人生の代行はできないし、人も自分の人生の代行はできないのだから。喩えそれが親子であったとしても。
 

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