季子第十六 439

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原文

孔子曰、生而知之者、上也。學而知之者、次也。困而學之、又其次也。
困而不學、民斯爲下矣。
 

〔 読み下し 〕

孔子(こうし)(のたま)わく、()まれながらにして(これ)()(もの)は、(じょう)なり。(まな)びて(これ)()(もの)は、(つぎ)なり(くる)しみて(これ)(まな)ぶは、(また)()(つぎ)なり。(くる)しみて(まな)ばざるは、民斯(たみこれ)()()す。
 

〔 通釈 〕

孔子云う、「生まれながらにして道理を知っている者は、最上の人物である。学んで道理を知る者は、その次の人物である。ものごとに行き詰まって、困窮する現実の中から道理を学び取る者は、又その次の人物と云ってよかろう。行き詰まって困窮しても、その中から何も学び取ろうとしない者は、人として最低だ!」と。
 

〔 解説 〕

人生は毎日応用問題を解かされているようなもので、毎日が学びの連続ですが、日々遭遇する現実は、丁度絶妙なタイミングでその人に与えられた課題と捉えて良いのではないでしょうか?課題は解決する為にあるのであって、無視したり投げ出したりする為にあるのではない。

「神はその人に解決できないような課題は決して与えない」と申しますが、我々凡人は目の前に現実を突きつけられてみないと、それがこの人生に於ける課題であることに中々気付きません。

全一学の故森信三先生は、「真理は現実の只中にあり!」と看破しておられますが、現実を偶然の出来事と捉えるか、自分に与えられた課題と捉えるか、逃避するのか?受けて立つのか?心の姿勢がその人の人格と人生、つまり運命を決めてしまう。

(思い)が原因で人生(運命)は結果。原因―結果の法則は誰も晦ますことができません。この原因―結果の法則のことを道理という訳ですね。良い種を蒔けば良い実がなり、悪い種を蒔けば悪い実がなる、というのも道理。良い実も悪い実も、自分が蒔いた種ならば、自分自身で刈り取らなければなりません。誰も晦ますことができません。これも又道理です。

まあ人生とは、日々種蒔きをし、日々刈り取りをやらされているようなものなんです。逃げる訳には行かないんですよ!孔子から「民これを下となす、サイテー!」と言われないようにしましょう。
 

〔 子供論語  意訳 〕

孔子(こうし)(さま)がおっしゃった、「()われなくても()かる(ひと)はサイコー。()われれば()かる(ひと)はマアマア。()われても()からないが、やってみて()かる(ひと)はフツー。()われても()からずやってみようともしない(ひと)はサイテーです!」と。
 

〔 親御さんへ 〕

何だか自分のことを云われているみたいで、ドキリとした人もおられるのではないでしょうか? でもご安心ください、ドキリとする方が正常なのですから。本当にサイテーの人は、自分は云われなくても分かるサイコーの部類と錯覚して、反省したり改過したりすることがありませんから。否、それ以前に、無関心・無感動・無反応です、こういう話しに対しては。

本当にサイテーの人は、そもそも論語になど興味を持ちませんし、精神世界の話しなど鼻でせせら笑いますからね、大脳皮質が勝手に創り出した幻想に過ぎないと。「馬を水辺まで引いて行くことはできるが、水を飲むかどうかは馬次第」とはよく云ったもので、確かにその気のない人には手の施しようがありません。釈迦はこれを「縁無き衆生は度し難し」と云いました。

人は失敗を犯す生きものですが、失敗そのものは大したことではない。その中から学び取って行けば良い。完全無欠の人間などいないのだから。だが、失敗したらしっ放しで、失敗の経験から何も学び取ろうとしない者、失敗の原因を人のせい・社会のせい・環境のせいにして恬として恥じないもの、これを孔子は「民これを下となす、サイテー」と云ったんです。サイテーとは縁無き衆生のことですね。

何度も云うように、「三界唯心」、すべての世界は自らの思い(心)の反映です。健康面でも経済面でも人間関係面でも。自らの思いが現実を創り出し環境を引き寄せているのです。どうかどうか、このことはよく知っておいてください。

人のせい・社会のせい・環境のせいにしている暇などないんですよ!善因―善果、悪因―悪果、善なる思いは善なる結果を引き寄せ、悪しき思いは悪しき結果を引き寄せる。これはよく覚えておいてください。棺桶に入ってからでは間に合わないのですからね!!
 

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