季子第十六 442

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原文

孔子日、誠不以富、亦祇以異。齊景公有馬千駟。死之日。民無徳而稱焉。
伯夷叔齊、餓于首陽之下。民到于今稱之。其斯之謂與。
 

〔 読み下し 〕

孔子(こうし)(のたま)わく、(まこと)(とみ)(もっ)てせず、亦祇(またまさ)(こと)なれるを(もっ)てす。(せい)景公(けいこう)馬千駟(うませんし)()り。()する()(たみ)(とく)として(しょう)する()し。(はく)()(しゅく)(せい)(しゅ)(よう)(もと)()う。(たみ)(いま)(いた)るまで(これ)(しょう)す。()(これ)()()うか。
 

〔 通釈 〕

孔子云う、「詩に『人の評価は富の有る無しで決るものではない。ただ人と異なった徳行があるかどうかだ』とある。斉の景公は馬を四千頭も所有するほどの富貴を極めた人であったが、いざ死んでしまうと、人民の誰一人として称賛する者がいなかった。

これに対して伯夷と叔斉は、首陽山の麓で餓死する程の困窮を極めた人であるが、人民は今に到るまでその人徳を称えている。この詩はこのことを云っているのだろう」と。
 

〔 解説 〕

斉の景公は孔子と同時代の人で、孔子も会っています。(顔淵第十二299章参照)伯夷・叔斉は臣下である周の武王が主君殷の紂王を討つことは不徳であるとして武王を諫めたが聞かれず、周が天下を統一した後武王は二人を保護しようとしたが、潔しとせず首陽山の麓に隠れて蕨を食って飢えをしのいだが餓死してしまった。

駟とは、顔淵第十二296章の解説でも述べた通り、四頭立てで引く馬車のこと。当時としては最速の乗り物でした。

「誠に富を以てせず、亦祇(まさ)に異なれるを以てす」とはドキリとさせられます。経は孔子が晩年に編纂し直したものといわれておりますが、二千五百年も前からこんなことが云われているのに、私達人間は一体いつになったら欲ボケから目が覚めるのでしょうか?いつまで肉の感官に振り回され続けたら気が済むのでしょうか?

何度も云うように、人間存在の実相(真の姿)は、「人間の本質は魂である。肉体は魂の乗り舟である。魂は神の種を宿した永遠不滅の存在であって、生まれ変わり死に変わり(輪廻転生)を繰り返しながら、無限の進化を遂げて行く。これが人間存在の実相である」ということです。人間は偶然の産物ではない、肉の子ではないんです!すべてが神の子なんです!!

ならば、永遠不滅の神の子人間として、今世どのように生き切るのか!?神の子人間としてあなたの人生に

  一、なくてはならない物事は何か?(必要十分領域)
  
二、あった方が良い物事は何か?(必要領域)
  
三、あってもなくても良い物事は何か?(分水域)
  
四、ない方が良い物事は何か?(欲望領域)
  
五、あってはならない物事は何か
?(欲望十分領域)


をよくよく吟味して、日常の生活環境を整備し直してみてはどうでしょうか?こんなにもあってもなくても良い物事に取り囲まれていたのか!?と、びっくりする筈です。

現代
社会は欲望原理主義が大手を振って罷り通っておりますから、それに振り回されないよう一度ライフスタイルを必要原理主義のシンプルなものに戻してみるのも良いかも知れません。

尚、本章冒頭の「孔子日」は、無いのが一般的ですが、朱子集注では欠文であろうとしており、又テキストもこれを採用しておりますので、ここではテキストに従いました。
 

〔 子供論語  意訳 〕

孔子(こうし)(さま)がおっしゃった、「(むかし)からの()(つた)えに、『人間(にんげん)()()ちはお(かね)()ちかどうかで()まるのではない。立派(りっぱ)人格(じんかく)かどうかで()まるのだ』というものがある。(せい)(こく)殿様景公(とのさまけいこう)は、(うま)四千頭(よんせんとう)()(おお)(がね)()ちであったが、()んだ(あと)(だれ)立派(りっぱ)(ひと)だったという(もの)はいなかった。つい(さい)(きん)()んだばかりなのに、人々(ひとびと)はそういう(ひと)がいたことすら(わす)れてしまっている。これに(たい)して700(ねん)ほど(むかし)()くなった(はく)()(しゅく)(せい)という兄弟(きょうだい)は、()()にするくらい貧乏(びんぼう)した(ひと)であるが、人格(じんかく)立派(りっぱ)であったため(いま)でも話し(はな)のタネになる。(むかし)からの()(つた)えはウソじゃないんだよ」と。
 

〔 親御さんへ 〕

誰が述べた言葉か不明だけれども、昔から民間で言い伝えられて来た格言を「俚諺」或は「俗諺」と云います。名言名句辞典にも随分収められておりまして、

 「人は許しても天が許さぬ (人容天不容)」・
 
「食は広州に在り (食在広州)」・
 
「食後の散歩は薬屋要らず (飯後一百歩、不要薬舗)」・
 
「善の門は開き難く、悪の門は閉じ難し (善門難開、悪門難閉)」

等はみな俗諺です。中でも「食は広州に在り」なる言葉はテレビコマーシャルにも使われていて有名ですが、ちょっと面白いので全文紹介してみましょう。

「食は広州に在り(食在広州)、住は蘇州に在り(住在蘇州)、
   衣は杭州に在り(穿在杭州)、「死するは柳州に在り(死在柳州)」

『広州ではどんな動物でも植物でも料理にするので、食べるものなら広東料理が一番だ。水の都蘇州はのどかな所なので、住むなら蘇州に限る。杭州は絹織物が盛んなので、衣類は杭州が一番だ。柳州は棺桶に適した木材が豊富なので、死ぬなら柳州が良い』と。

穿(せん)とは穿衣(せんい)のことで、衣類を着るという意味です。広東人はテーブル以外の四ツ足なら何でも食べると聞きますが、まんざらウソでもないようです。ハクビシンは勿論のこと、トカゲ料理や猫料理専門店までありますからね。
 

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