子張第十九 492

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〔原文〕
子夏日、大徳不踰閑。小徳出入可也。

〔読み下し〕
()()()わく大徳(だいとく)(のり)()えず。小徳(しょうとく)出入(しゅつにゅう)するも()なり。

〔新論語 通釈〕
子夏云う、「すべての徳の土台(ベース)である仁の大徳を踏み外すことがなければ、その他の小さな徳については多少行き届かないことがあっても、まあ大目に見よう」と。

〔解説〕

八佾第三043章 に「人にして仁ならずんば礼を如何にせん。人にして仁ならずんば楽を如何にせん」、里仁第四070章に「苟(いや)しくも仁に志せば悪()しきことなきなり」という孔子の言葉がありますが、子夏はこの教えを深く肝に銘じていたのでしょう、「仁に志して踏み外すことさえなければ、多少のことには目をつぶってやれ!」と云う。

真面目一方の堅物かと思っていたら、結構話しの分かる人じゃないですか。曽子の門は猛烈に重苦しかったようですが、子夏の門は和気藹々として結構楽しかったのではないでしょうか?根本さえ見失わなければ、枝葉末節にはガミガミ云わない!というのですから。

子夏の門は躾は厳しかったようですが、あれはダメこれもダメといった細々とした規則のようなものはなくて、当会のように大まかな「覚え」程度のものしかなかったのではないでしょうかね?案外伸び伸びとやっていたのではないでしょうか。当会覚え第五条には、「例会に於いては一切のタブーなし。政治談議よし、商売談義よし、宗教談義よし、下ネタ談義よし、etcよし。但し自己責任で」とあります。

以前、「論語を学ぼうと思って入会したのに、仏教やらキリスト教やら精神世界やらの話しがいっぱいあって、本筋から外れているのではないか!?」と文句を云って来た会員がおりましたので、「当会覚え第一条・第二条・第三条は読んだかね?」と聞くと、「読んでない」と云う。

第一条〔当会設立の理念〕
    当会設立の理念は「学真行道」。真理を学び道を行ずる研鑽の会である。
    先ずはよく学び、実践し、次によく遊べ。

第二条〔会の名称及び学習方針〕
    当会の名称は「論語に学ぶ会」と云い、「論語を学ぶ会」でも「論語を
    読む会」でもない。論語つまり孔子の教えに真理を学び、できる所から
    実践してみようではないか!という考えから命名された。学習方針は
    第一に論語。さらに中庸の精神で真理を学ぶ為に、古典・哲学・科学・
    宗教・芸術など幅広いジャンルを扱う。

第三条〔入会の資格〕
    人種・国籍・性別・年齢を問わず、当会の理念に賛同し学習意欲のある
    人ならば誰でも入会できる。入退会は自由。

以上を説明したら、顔を真っ赤にしてそれっきり来なくなりました。どうか事務局は、初めてゲスト参加される方には必ず「当会覚え」を渡して下さいね。最近「論語に学ぶ会」を「老後に学ぶ会」と勘違いしている人もいるようだから。学問しないで酒ばっかり飲んでいるんだもの、「交尾が先!後悔は後!!」とか云って。まあいいか!?「酔生夢死」ってのも、「泥酔生悪夢死」でなければ。先があまり長くなさそうだから‥‥、まあ好きなようにやらせておくか‥‥!!

〔子供論語 意訳〕
()()、「君達(きみたち)はまず基礎(きそ)をしっかり()につけなさい。あの()この()はその(あと)()い」と()った。

〔親御さんへ〕
これは大切なことです、基礎体力・基礎学力・基礎知識・基礎理論等々、
建物に喩えてみればこれらは基礎工事、つまり土台に当たるものがしっかりしていないと、がっしりした躯体()を組めないし、大きな屋根を乗せられません。建物に喩えれば当たり前で誰にも分かることなのに、人間としての自分自身のこととなると、何が土台で、何が躯体()で、何が屋根で、何が装飾か、訳が分からなくなってしまいます。

これについて孔子は、 述而第七156章で「道に志し、徳に拠り、仁に依り、芸に游ぶ」と、明確に述べています。つまり、『神の子人間としての正しい道を踏み行ないなさい。そして徳(人格)を磨きなさい。徳の実践はすべて仁をより所としなさい。その上で豊かな教養を身につけ悠々と生きる。これが人生の王道だ!』と。

これが当会の基本的な考え方「徳はすべて仁ベース。仁あっての義・仁あっての礼・仁あっての知・仁あっての信。そこに中庸の屋根を乗せて無限に進化して行け!」、仁の土台に義・礼・知・信の柱を打建て、中庸の屋根を乗せて王道を歩め!そこに豊かな教養をあしらったら猶よし!!と。何だか、子夏の門にそっくりになって来たねえ‥‥?嫌だねえ‥‥。
 

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