子張第十九 496

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〔原文〕
子游日、吾友張也、爲難能也。然而未仁。

〔読み下し〕
子游(しゆう)()わく()(とも)(ちょう)や、()くし(がた)きを()すなり。(しか)れども(いま)(じん)ならず。

〔新論語 通釈〕
子游云う、「私の友人の子張は、人のできないことを難なくやり遂げる才能はあるが、思いやりに欠けるところが玉にキズで、仁者とは云えないな」と。

〔解説〕
これが子游の子張評、「子張はやり手だが、思いやりに欠ける奴だ!」というのが。子夏・子游・曽子・子張の四人はほぼ同世代のライバルですが、年の順から云うと、子夏(孔子の44才年下)−子游(45才年下)―曽子(46才年下)−子張(48才年下)と、子張が一番年下です。次章で曽子も同じような子張評を述べていますから、生意気な後輩だったのでしょうね、子張は。

483章解説で述べた通り、子張はこの時ログ490、現在日本にKKという名で転生して論客として活躍しておりますが、今も490。ここは皆さんよく理解してもらいたい所なのですが、身内や家族・社員や部下・教え子や卒業生・同僚や仲間等々、身近な人を思いやり愛することなど当たり前で普通のこと、立派でも何でもありません。

問題は、それ以外はどうなのか?例えば隣近所や地域社会・社員の家族や取引先・全学の児童生徒やOBOG・同業者やライバル等々に対しても思いやり愛する気持があのかどうか?つまり、仁の射程が血縁・地縁を超えて人縁にまで及んでいるのかどうか?もっと分かり易く云うと、感情的にあまり好きではない、どちらかというと嫌いな人であっても、相手の身になって思いやることができるのかどうか?

どうもここがログ500・仁者の壁を越えられるかどうかの最後のハードルのようです。当会ではこれを、仁の第四段階「寛恕」人を許す仁・受容の仁と云っておりますが、これがログ500の壁ですね、受容できるかどうかが。あるがままを受け容れることができると、仁の射程がぐっと拡がります。

〔子供論語 意訳〕
子游(しゆう)が、「友人(ゆうじん)()(ちょう)(くん)成績(せいせき)抜群(ばつぐん)だけれど、(おも)いやりがないから、いざという(とき)仲間(なかま)から()いてしまう」と()った。

〔親御さんへ〕
いざという時程、日頃の交友がものを云うことはありませんね。「蒔かぬ種は生えぬ」と云いますが、やるべきこともやらず好い結果を期待するのは無理というもの、原因―結果の法則は晦ますことができません。交友関係にも同じことが云えます。人間自分一人で成し遂げられることなどタカが知れておりまして、「あいつの云うことなら!」と同調者・共鳴者がバックアップしてくれて始めて物事は増幅・拡大して行く。

里仁第四091章に「徳は孤ならず、必ず隣有り(徳のある人間は孤立することはない。必ず同調者・共鳴者が現れるものである)」とあるように、すべての徳の土台(ベース)である仁の徳さえしっかりと身につけていれば、必ず支援者・協力者が現れてくるものです。

孤軍奮闘というと立派なことのように聞こえますが、いつまで経っても孤軍奮闘で同調者・共鳴者が現れないというのは、その人がどこか薄情と云うか、独り善がりで自分本位な一面を持ち合わせていて、自分では気付かず木で鼻を括ったような態度をとってしまう。恐らく子張にはこのような一面があったのではないでしょうか?

こういう人は、中々真の友情を育むことができません、肩で風を切っている時ならチヤホヤしてくれる人はいるけれど、一旦落ち目になると、蜘蛛の子を散らすように周りに誰もいなくなってしまいます。順境の時には気付かなかったものが、逆境になって初めて浮き彫りになってくる、本当は自分は人にどう思われていたのかが。だから昔の人は云ったんですね、「順境の友は真の友ならず」と。

でもまあ、こういう経験をしてみるのもいい薬になりますね。私も若いころ随分と苦い経験をしました。五十前ならガツンと叱ってくれる人もおりますが、五十過ぎると普通は誰も叱ってくれません、一丁前の大人を叱ったら失礼ですからね。

しかし、自分のことを振り返ってみると、五十なんて一丁前面した洟垂れ小僧に過ぎなかったように思います、何もかも。誰も叱ってくれないとなると、後は自分で気付く他はありません。会社人間としては六十で定年だけれど、神の子人間としては六十過ぎてからが本当の勝負じゃないのかなあ、永遠不滅の魂に定年などありませんから。それまでに、どれだけ精神・魂を鍛えたか?学んだか?気付いたか?じゃないのでしょうかね。

学ぶこと、気付くことを止めてしまった時が、人生の終わりなのではないでしょうか。何度も云うように、私達はこの世に遊びに来ているのではありません、学びに来ているんです、仁(純粋な無条件の愛)を。宇宙広しと雖も、この地球ほど「純粋な無条件の愛」を学ぶに相応しい星はありません。地球は、お互いが先生となり生徒となって、仁を学ぶ学校なんです。ここを忘れてはいけません。
 

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